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音楽のまわりには、いつも忘れられない瞬間が生まれます。時間や空間を超えて、人や作品、記憶がつながる出会いの瞬間を捉え、エッセイ形式でお届けする連載です。
大学を卒業して働き、わずかながらできた貯金をはたいてイタリアへ向かった時。選んだのは、評判がよかったシエナ外国人大学という公立の語学コースだった。
日本の大学ですでに3年の間、イタリア語の授業を受けていたけれど、念のため、現地でも初級コースからイタリア語を学ぶことに決めた。その土地で文化を理解するためには、語学ができなければ始まらないと考えてのこと。順調に行けば、3ヶ月ごとに上のレベルのクラスにいけるだろうと思っていた。
学生寮に入り、通学してから3ヶ月。自分のイタリア語の習得度が、思ったよりずっと遅いことに焦る自分がいた。とくにスピーキング。授業で当てられても、言葉がすぐに出てこない。頭の中で「どう答えよう?」と考えているうちに、すっと次の生徒が当てられてしまう。
同じタイミングで入学してきたスペイン人やフランス人の学生は、楽しそうに、余裕をもって会話している。他のアジア人留学生たちの成長もめざましい。
自分は一人暮らしをするのも初めてで、生活様式も違うので、毎日を送るだけで精一杯・・・。余裕の差が見えて、すっかり自信をなくし、気持ちも塞ぎ込んでいきそうな日々だった。
気分転換がしたくなって、日本では週末に何をしていたのだろうと考えたら、生活の中にチェロがないことに気がついた。
シエナは小さな町だけれど、ちゃんと探せばアマチュアオーケストラがあるかもしれない。そう思って学校の事務スタッフにたずねてみると、何人かを経た後に、ようやく1つの学校を教えてもらった。
紙切れに住所を書いてもらって、地図を頼りにその場所へ徒歩で向かう。スマートフォンがない時代、イタリア語が不自由なので電話をする勇気がない自分にとって、アポイントなしで現地に行くしか、情報を得る手段はなかった。
イタリア語の貧しいボキャブラリーを総動員して「オーケストラでチェロが弾きたい」と伝える私の話を、私立の音楽学校の受付スタッフは辛抱強く聞いてくれた。「ありますよ、オーケストラ。ちょっと待ってね」と言って席を立ったかと思うと、校長先生を紹介してくれた。楽器がないというと、その足で、3人で近所の楽器店に向かうことになった。レンタルできるチェロがあるかもしれないという。
明るいグレーのスーツを着こなすダンディな校長先生は、楽器店の奥の倉庫で眠っていた楽器をひと目見て顔をしかめた。チェロの表板の端が欠けていて、ベニヤ板の色が露出しているし、塗装も少しはげていた。
不安はあったが、レンタルチェロはこの1台しかないという。格安のレンタル料で貸してもらうことになった。
調弦するといきなりA線が切れてしまった。「弦は払うから大丈夫」とポケットから現金を取り出す校長先生。実は弦1本の代金は、1ヶ月のレンタル代金よりも高かった。
かくしてチェロが手に入り、オーケストラ練習の日に音楽学校へ初めて登校した。そこでまた驚きが待ちうけていた。弦楽器は自分を含めて6人で、他は木管楽器が数人、トランペットが一人、そしてエレキギターにエレキベース、ドラムに加え、ピアノが2台! 思ってもみなかった編成の”オーケストラ”だった。
指揮をするトレーナー役は、ギター講師のダリオさん。次のコンサートはもう来月、でも大丈夫、と言って楽譜を渡され、『ニュー・シネマ・パラダイス』、『ライフ・イズ・ビューティフル』、『アマルコルド』など、イタリアの映画音楽の名曲を次々に練習していく。もう一人のチェリストの女性は親切で、次はどの曲、と毎回教えてくれる。
楽譜を前にして、あれ、読める……という不思議な感覚を覚えた。イタリア語で書かれている文章は時間をかけないと読めなくても、楽譜ならなんとか読める。すっと気持ちが楽になった。
チェロの仲間は、楽器を始めたばかりのようで、ポジション移動に苦労して何度か落ちてしまう。そこで、2人して落ちないように…と食らいついて弾いていくうちに、ここなら自分でもできることがあるかもしれない、と感じはじめた。
指揮者が「Piu leggero!」など指示する言葉も、なるほど音楽用語はイタリア語なので、そのままでわかりやすい。名曲を名曲として弾くのにはまだ時間がかかりそうだけど、「弾きたい!」という気持ちにあふれるみんなの音に包まれて、心が踊った。面白いけれど不自由さもある「言葉」というものの向こう側に触れることができたような、不思議な感覚だった。
イタリア語を理解するのも話すのもスピードが遅すぎて、周りについていけず、言いたいことがあっても言えず、無力感を感じつづけてきた日々。だからこそ、「できるかも」というわずかな自信と、ハーモニーの中に溶け込めることに、幸せを感じた。
かくして迎えたコンサートの当日。高熱にうかされながら、歌手を目指す友人に借りた黒いシャツを着て出演した。1560年建設の歴史あるシエナのリノヴァーティ劇場の舞台から見る客席は、装飾が豪華にきらめいていて、まぶしかった。
でも、こんなありがたい舞台よりも、実は、初めてのリハーサル日のことが今では印象に残っている。一瞬でも、言葉の向こう側に触れられたからかもしれない。
Photo/Text : 安田真子(Mako Yasuda)
弦楽器をこよなく愛する音楽ライター。2016年から2026年までオランダで活動。地域のイベントや市民オーケストラで 時たまチェロを弾いています。 http://makoyasuda.com/