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第43回 伝説のチェリスト フォイアマンから受け継がれるもの in Berlin Part2

エマニュエル・フォイアマン20世紀前半に活躍し、かのパブロ・カザルスと同時代に並び立つ存在だったチェリストです。
前回の連載記事でご紹介したとおり、2022年には生誕120年のアニバーサリーを迎え、ベルリンでは彼の名に寄せた国際チェロコンクール『フォイマン大賞』の第5回目が開かれました。

コンクール取材に合わせて、フォイアマンの孫弟子にあたる存在の堤剛さん、そしてベルリン芸術大学で教えるイェンス・ペーター=マインツさんに現地でお会いしました。
今回の記事では、フォイアマンと日本との深いつながりや、現代のチェリストに与える影響について、現在活躍するチェリストである堤さんとマインツさんの言葉を通してお伝えします。

フォイアマンと日本のチェリスト

日本においてフォイアマンは残されたいくつかの録音を通して知られていますが、実は日本とフォイアマンの間にはそれだけではない深いつながりがあります。

日本とフォイアマンのつながりを語るうえで欠かせないのが、日本のクラシック音楽における草分け的存在で、チェリスト・指揮者として知られている齋藤秀雄です。

齋藤秀雄はヨーロッパ留学をする日本人が今よりも遥かに少なかった戦前、いち早くドイツに渡った音楽家でした。1923年からはまずライプツィヒ音楽院に留学し、ユリウス・クレンゲルの門下で学びました。
当時、クレンゲルのクラスには、フォイアマンだけではなくグレゴール・ピアティゴルスキーや、のちにジャクリーヌ・デュ・プレの師となるイギリスのウィリアム・プリースなどのそうそうたる顔ぶれが並んでいました。フォイアマンと齋藤秀雄は、最初は師弟としてではなく、同じクレンゲルのもとの兄弟弟子として出会ったのです。

当時のことを師・齋藤秀雄から伝え聞く堤剛さんは、こう語ります。

「先生は日本から初めて留学して、世界の最高水準の素晴らしいチェリストと勉強することになって、色々な意味で貴重な体験をされました。日本に戻ってからは新響などで活動されたのですが、『自分としてはチェロ演奏をさらに極めたい』と思い、誰に師事したいかと考えた時に、『この人はこれからのチェロの世界を背負っていくのではないか』と思い浮かんだのがフォイアマンだったのです」

齋藤とフォイアマンは1902年生まれの同年齢。その後、当時27歳の2人がベルリン高等音楽学校(現在のベルリン芸術大学)で師弟として過ごした2年間のエピソードも伝わっています。

「フォイアマンは才能にあふれていて、生徒たちがうまく弾けない理由があまり分からなかったらしいのです。この人はなまけているんじゃないかと思われてしまうのだと。ですから、当時のベルリンで暖房もあまりない中、齋藤先生も苦労なさった。『破門されては』と思って、寒さにかじかむ手をお湯につけてからまた練習したり、電車の中でも勉強したりされていたそうです」

写真:第5回『フォイアマン大賞』で審査員長として講評を述べる堤さん

日本にもたらされたフォイアマンのチェロ奏法

フォイアマンの技術を全力で学んだのち日本に帰国した齋藤秀雄は、戦後の日本に新たな音楽教育の場を設けるため、動きました。齋藤だけではなくピアノの井口基成や音楽評論の吉田秀和らによって、小学生から本格的な音楽教育を受けられる『子供のための音楽教室』を開いたのです。
これが日本の音楽界に変化を生み出し、堤さんの世代の音楽家が育ち、さらに続く世代をリードしていく形で、日本のクラシック音楽が花開いていく端緒になっていきました。

「第二次世界大戦の後、日本が荒れ地のようになっていたとき、齋藤先生は『これから日本の音楽界を豊かにするために、子どもの頃から鍛えなければいけない』と考えた。『子供のための音楽教室』には、チェロだけではなくヴァイオリンやピアノのクラスもありました。平井丈一朗さんの級から始まり、その次に徳永 兼一郎さん、その次が私でその一級下に倉田澄子さん、安田謙一郎さんらがいらっしゃった。始めた頃はまだ小学生だった私たちに、先生方は本当に一生懸命になって教えてくださったのです」

カザルスに続き、チェロ界に現れたフォイアマンという巨星。演奏スタイルも今までのチェリストとは一線を画したものでした。ドイツで直接目の当たりにし、学びとったフォイアマンの奏法や音楽性を、齋藤秀雄はチェロの弟子たちに積極的に伝えていきました。

フォイアマンとカザルスというのは抜きんでた2人でした。齋藤先生は、フォイアマンの技術であり音楽的解釈であるものはこれからのチェロの演奏法になるのではないかと感じられて、どうしてもフォイアマンのものを日本に持ってきて若い人を育て上げたいと考えられたのです。
齋藤先生はいつも『本当にチェリストになりたいのだったら、フォイアマンのようにならなければいけないよ』と言っていました。音楽室にはフォイアマンの写真が飾ってあり、くわえ煙草の姿を私は毎週見ていましたね。フォイアマンというのが一つの目標で、アイドルのような存在になっていったのです」

チェロの可能性を広げた演奏スタイル

フォイアマンが没後80年近く経った今なおチェリストの憧れの存在でありつづけるのには、いくつもの理由があります。

「フォイアマンの魅力のひとつは、ずば抜けたテクニックです。残された映像でも、例えばポッパーの『紡ぎ唄』では、難しい曲なのですが、軽々と弾いていて。すごい才能であり、ボウイングや左手の動きなどがとても画期的で合理的だったのです。また、非常に表現力があり素晴らしい音で、余計なものは省かれているのも魅力だったと思います。

1930年前後に日本で人気のあったチェリストというのは、苦しい顔をして大変そうに演奏していた。テクニックだけではなく解釈も異なり、グリッサンドをかけまくるのが典型だった時代です。今では誰もそのような人はいませんよね。フォイアマンはすらすらときれいに弾いてしまい、あまりに世界が違うので、当時は人気が出なかったようです。それでも齋藤先生は、将来のチェロ演奏はこうあるべきだというのをフォイアマンの中に見据えていらっしゃったのだと思います」

当時の風潮とは異なっていても、フォイアマンが生み出した革新的な演奏スタイルは先見の明のあったチェリストを惹きつけ、影響を与えていきました。現代のチェロ奏法の礎となるものに、フォイアマンは大きく貢献したといえるでしょう。

映像:フォイアマンによるポッパー『紡ぎ唄』では、驚異的な演奏テクニックを披露している

音で伝わるフォイアマンの魅力

「齋藤先生がアンサンブルでフォイアマンの隣にいたとき、フォイアマンが弾き出すと自分のチェロがぐわーっと鳴り出すと言っていました。それほど共鳴していて、自分のチェロまでよく鳴るという音の作り方をしていたんだよと。
私にとって初めてのフォイアマンのレコードはブラームスのチェロソナタ第1番なのですが、家でLPにかけたら、窓やら何やらががたがたと鳴って驚きました。本当はこういう音だったのかと。当時のレコーディングからはなかなか分からないことですが」

堤さんが自身の愛器モンタニャーナを選んだ時にも、フォイアマンの影響があったそうです。

「フォイアマンが最盛期に使っていた楽器がモンタニャーナなのです。今でも残っている素晴らしいレコードは、彼がその楽器で弾いていた。フォイアマンの弾き方だけではなく、音も私の中にあったので、私自身もフォイアマンのような音をつくりたいということで、最終的に今のモンタニャーナのチェロを選んだのです」

堤さんがインディアナ大学に留学したきっかけにも、フォイアマンの存在があったとも語ります。

「アメリカの奨学金に受かっていて留学先を考えていた時、ちょうどヤーノシュ・シュタルケル先生が来日されて、齋藤先生がリサイタルに連れて行ってくださった。もう圧倒的で、『チェロもこんな風に弾けるんだ』という感じで。齋藤先生が相談に行ってくださると、シュタルケル先生は『自分にとっても、チェロの奏法や音楽解釈など、目指してきたものはフォイアマンだ』とおっしゃった。そこで齋藤先生は『この大先生にしてこうおっしゃるんだったら、シュタルケル先生の所に行きなさい』と……。そのような話になったほど、私の中にはいつもフォイアマンの存在がありました」

齋藤秀雄が最新のチェロ奏法を日本にもたらし、弟子である堤さんらが次の世代へとバトンを手渡して行ったことで、今の若いチェリストたちの活躍につながっています。チェロの可能性を広げる演奏テクニックを学んだチェリストたちは、いっそう豊かな表現に挑むことができます。フォイアマンが日本に与えた影響は大きいといえるでしょう。

フォイアマンの楽器との出会い

フォイアマンの没年に生まれた堤さんには、フォイアマンとの間接的な出会いが今までにいくつも訪れています。直接会うことは叶わなくても、縁が繋がり、受け継がれていく伝統があります。

「フォイアマンはユダヤ人だったので、第一次世界大戦後にナチ党が権力を強めていくと、ベルリン芸大の仕事を辞めなければならなくなり、最終的にはアメリカに渡りました。その後、亡くなるまで小型のストディヴァリのチェロを使っていたといわれています。イエール大学のアルド・パリソ先生がずっと所有していた楽器です。
ある時ノーフォーク室内音楽祭で、パリソ先生が『あなたはフォイアマンの先生の系統なのだから、フォイアマンの使っていたチェロを使ってリサイタルしてほしい』と言ってくださいました。ほんの数日間のことでしたが、ある意味でフォイアマンに助けられている気がしました」

このチェロは現在、『フォイアマン』または『デ・ムンク』と呼ばれている1730年製のストラディヴァリです。最近では日本財団により石坂団十郎さんやカミーユ・トマさんに貸与され、演奏に使われていました。

フォイアマンのご家族との出会いも、堤さんの心に残っています。

「私はアメリカで長かったので、チェロの集まりの時にフォイアマンの奥様やお嬢様にはお会いしています。よく演奏旅行を一緒にしていたという妹さんに『兄はこう弾いていました』とお話を聞くこともあり、それまでは神様のような存在だったフォイアマンが、急に人間的な存在になったのを覚えています」

ベルリンの教室に飾られる大判ポートレート

ドイツ人チェリストのイェンス・ペーター=マインツさんにとっても、フォイマンは特別なチェリストです。2004年からベルリン芸術大学でチェロ科を受け持っているマインツさんには、フォイアマンは同大学で教鞭を執った先輩的存在であるだけではなく、個人的な思い入れがある音楽家です。

フォイアマンは1929年からベルリンで指導に当たりましたが、残念ながらわずか3年後、ナチスの勢力が強まった結果、生徒たちの抵抗もむなしく最終的に職を追われ、アメリカへ渡ることとなりました。

現在マインツさんが教えるチェロ科の練習室には、フォイアマンの大きな写真が飾られています。等身大超のサイズのフォイアマンのポートレートの存在感は抜群です。

「もともとはチェスターフィールドという煙草の宣伝ポスターのために撮影された写真です。原版フィルムをフォイアマンの伝記作家から借りて大きく引き延ばして作った特注品ですよ」とマインツさんは満足げに語ります。

写真:マインツさんがフォイアマンの写真を忠実に模して自身を撮影したポートレート

「写真ひとつとっても、彼はリラックスして優雅に見える。 彼自身、いかに素晴らしいチェリストなのかを知っていることが伝わってきます。実際、自信というものは、あらゆるアーティストにとって重要なことなのです」

マインツさんは、フォイアマンの演奏から今でもインスピレーションを得つづけているといいます。

「ダーヴィド・ゲリンガスのもとでカール・ダヴィドフの書いたヴィルトゥオーゾ的な作品を学んでいた時、フォイアマンの録音に刺激を受けていました。当時知り得た唯一のものでしたが、素晴らしくて。今にいたるまで、その演奏がスタンダードなのです。それ以来、リマスター版やオフィスレコーディング版なども含めて、彼の録音はすべて聞いて学ぶようになりました」

同大学での指導に当たって、マインツさんが学生たちに受け継ぎたいのは、フォイアマンの「演奏のたやすさ」だと語ります。

「フォイアマンには技術的な障壁がまったく無く、チェロをヴァイオリンの演奏レベルにまで引き上げた。これが私たちの目標であり、学生たちに伝えたいことでもあります。技術的な障壁がなく、チェロにあらゆることを求められる状態です。
学生たちには、過去へ視野を広げる感覚も養ってほしいと思います。チェロ奏法がどのように発展してきたかを知るべきですし、残されているすべての録音を聴いてほしい。1920年後半、ベルリンにはフォイアマンだけではなく、ピアティゴルスキーもベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席として来ていて、私の近所に住んでいたんです。彼らのような伝説的なチェリストについて、もっと知ってもらいたいですね」
もしもフォイアマンが世界的なチェロ奏法の発展や、現代日本の素晴らしいチェリストのことを知ったなら、きっと写真に残されているような笑顔を見せてくれたのでは……と想像せずにはいられません。

フォイアマンが残した音源や映像にはCDやYouTubeで公開されているものがあるので、ぜひ視聴してみてくださいね。


映像:フォイアマンが1930年代に録音した山田耕筰『からたちの花』。技巧的なアレンジから聴けるテクニックの素晴らしさだけではなく、「日本のうた」の心を短期間でつかんだのだろうフォイアマンの音楽性の豊かさにも触れられる

Text : 安田真子
Photo : © Clemens Porykis
参考文献:"Emanuel Feuermann" Annette Morreau著