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バイオリン商 デビッド・ローリーの回想録
第7話 二人のチェロ奏者・その1


ジャンセン氏が小さな内輪だけのコンサートを催したある日、私は、チェロ奏者のセルヴェ氏に会った。彼は、当時の最も著名な演奏家の一人であった。彼がチェロの演奏家を志した時は、すでに40才になっていたという。しかし、その才能はたちまち頭角を現わし、演奏すると、必ず聴衆を興奮のるつばに巻き込んだという。

それほどの音楽的資質に恵まれていただけではなく、変った仕草をすることでも有名であった。例えばオーケストラより、自分のチェロの音がよく聞こえるようにと、チェロをかかえてオーケストラのひな段の上にかけ上っては聴衆を爆笑させたり、滑稽な顔をしてみせてどっと沸かせたりというように、一風変わっていた。彼は、「音楽を習い始めた頃、安いレッスンを受けるために、チェロを背負って十六里もの道のりを歩いて、毎週ブラッセルまで通ったものです。」と話をしてくれた。

彼は、ストラディヴァリウスの初期の大型チェロを持っていた。当時、大型のチェロは修理して小型化することが一般的に行われていた。しかし、彼は立派な体格をしていたために、大型楽器でも全く演奏上の困難を感じることがないので、大型のままで使っていた。

この頃、すでにセルヴェ氏は、かなり年をとっていたのだが、知りあって間もなく故里のハル市(ブラッセルの南に位置する小都市)で亡くなってしまった。市民は彼の死をいたみ等身大の大理石の像を建てた。その碑は、右手に弓を、左手にあのストラディヴァリウスのチェロを持っている。生前のセルヴェ氏は、どんな人に対してでも親愛の情をもって接し、物腰の柔かい人だったから多くの人に愛された。

彼には息子がいて、そのうちの一人は彼の跡を継いでブラッセル音楽院の第一チェロ奏者となった。彼は例のストラディヴァリウスのチェロを弾いていたが、ある日、私はハーモニー・ホールでのコンサートで、彼の弾く音を聴いた。この時、彼は弦楽四重奏団の一員で、ファースト・ヴァイオリンがヴィニアフスキー、セカンドがコリンズ、(ヴィオラはちょっと忘れてしまったが)というメンバーであった。

期待していたストラディヴァリウスのチェロの主旋律が奏でられる……。しかし、それは見事にはずれた。その音は、内にこもった、いわゆる我々が言う“樽”や“桶”のようなといったものだった。私は大変驚き、失望もした。このチェロには、たまたま表板、裏板ともに少しアーチが高いので、ややティーファートーン(音色がかたいこと)であることは知っていたが、これほどひどいとは思ってもみなかったのだ。

私は、プログラムの一部と二部の合い間に急いでステージに行って調べてみた。ここで理由は明白になった。このホールのステージは、空洞状の木製オーケストラ・ボックスの上に蓋がしてあるといった程度の造りだったのだ。その上、セルヴェ氏は木製のエンドピンを使用するくせがあったので、床が木であった場合に、どんな楽器であるにせよ音色に対して悪い影響が出るのである。どんな楽器を弾いても桶を叩くような音響効果になってしまうのだが、相手がストラディヴァリウスのチェロとあって、それが更に倍加されてしまったのだ。

もし彼がエンドピンを使わなければ、これを避けることが出来るかもしれないと考えて、その足で楽屋に彼を訪ねた。そして、この話をしてみたのだが、彼は私の意見を受け入れなかった。その当時、英国人以外のすべての演奏家は木製のエンドピンを必ず使っていたものである。

私はまだあきらめずに説得した。彼が彼の父同様に、私の師であるピアッティ氏を尊敬していることを知っていたからである。ピアッティ氏がいつも「エンドピンなしで弾きなさい」と教えていたことを話して、そのやり方をしてみせた。彼は、いく分心を動かされたようではあったが、やはり、不慣れな状態では弾けそうもないからと言うのだった。結局、話はそこで切りあげてしまった。

第8話 〜二人のチェロ奏者・その2〜へつづく