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第5回 ベルリン楽器博物館(後編)

我らが至宝―ヨーロッパの楽器博物館を訪ねて』シリーズでは、欧州各地の楽器コレクションの中から、専門家が選ぶとっておきの至宝をご紹介しています。

前回の記事(こちら)では、17世紀の北アルプスにおいて独自の製作方法で作られていたアレマン派の楽器が登場しました。今回は引き続きドイツ・ベルリン楽器博物館にてブリルメイヤー博士の導きのもと、ベルリンならではの逸品をご紹介します。


 

研究中のベルリン製の楽器に注目

同博物館で、ヴァイオリンは楽器の歴史において重要な位置を占めるものとして扱われています。

そのため、ヴァイオリンをはじめとする弦楽器のコレクションには、古楽器からクレモナ派として知られている楽器、さらにプロイセン王宮や後継者たちが所有していた楽器、さらにウィーン派の楽器も数多く所蔵されています。ヴァイオリンやヴィオラ、チェロの入った展示ケースがいくつもあり、弦楽器好きにとっては目移りする状態です。

 

ブリルメイヤー博士は、多数のコレクションの中でも弦楽器ファンに特に注目してほしい楽器があるといいます。1階中央へと足を進めると、そこには18世紀のベルリン生まれの楽器が並んでいました。
現在、博士が研究中だという楽器群であり、ベルリン楽器博物館にとって特別な逸品です。

至宝その2ーバッハマンの楽器ー

「これらの楽器を手掛けたのはアントン・バッハマン。私たちが知る中で、初めてベルリンの宮廷のために弦楽器を作った製作家です。

18世紀のベルリンには楽器のための材料が手近になく、楽器製作には地理的に不便な場所でした。楽器の材料に適した細かい年輪の入った木が育たないのです。なので、使われている木材はアルプスの各地から輸入されたものです。18世紀のベルリンの人々にとっては遠方です。十分な高さの山があったバイエルン東部の森の木材も一部は入ってきていました。

 

現在進行中の研究プロジェクトで、私はバッハマンの楽器に注目しています。彼がどのようにして楽器を製作していたかが最も重要なポイントです。

バッハマンは異なる製作スタイルについての知識を持っていました。展示されている楽器もそれぞれ異なる製作方法で作られていてとても興味深い。バッハマンは複数のアプローチを知ったうえで、実際に試しながら楽器を作っていたのです」

 

現代では、世界各地の情報がインターネットを介して簡単に手に入ります。しかし、電話はおろか写真もまだ発明されていなかった18世紀のヨーロッパでは、情報収集の手段はかぎられていました。楽器に関しての情報は、人に直接聞くか、紙の記録物、もしくは実物を手にするしか方法はなかったはずです。


その点において、アントン・バッハマン(Anton Bachmann, 1716-1800)はとても恵まれた場所にいました。プロイセン王国の首都だったベルリンで、フレデリック大王(フレデリック2世)をはじめとする王族や宮廷音楽家のための楽器作りに携わりながら、呼び寄せられた音楽家の楽器に触れるチャンスを日常的に得ていたのです。

バッハマンはプロイセン王国のフレデリック大王の宮廷のために楽器を作っていました。宮廷の記録に目を通すと、バッハマンのヴァイオリンやヴィオラ、チェロやリュートが多数購入されていることがわかります。

(写真)1767年製のアントン・バッハマン初期のヴァイオリン(コレクション5593番)。暗めの色合いが特徴的(Picture by Bares Ziegler) 


 王宮つきの楽器職人が見たもの

バッハマンが楽器を納めたフレデリック大王は音楽好きで、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツが演奏の指導をしていました。王は腕の立つフルート奏者のひとりで、『どうしよう。王様がコンサートを開きたいそうだから、ちゃんと練習しなくては!』とあわてる音楽家の手紙が残っているほどだそうです。

フレデリック大王の宮廷には、ヨーロッパ中から名演奏家が呼び寄せられていました。王宮にはバッハマンの楽器だけではなくイタリア製の楽器も所蔵されていて、特別な機会に使われていたと考えられています。
「宮廷つきの楽器職人として、コンサートで使われるすべての楽器をベストコンディションに保つことがバッハマンの任務のひとつでした」と博士。

研究において、バッハマンの楽器の細部にも注目が集まっています。


「バッハマンの楽器をよく見ると、イタリアン・ヴァイオリンの特徴がエフ字孔の形や装飾、ニスなどの細部に見受けられます。ストラディヴァリはエフ字孔の切り口を黒く塗ることがありましたが、バッハマンの1776年製のヴァイオリンも黒塗りして仕上げられています」


(写真)黒く塗られたエフ字孔が確認できるバッハマンのヴァイオリン(コレクション5593番)
 

名演奏家が持参する楽器や王宮が購入したものを手に取って、多様な製作テクニックを実際に試したバッハマンですが、現代の製作家が手がけるような、精巧な特定の楽器のレプリカを作ろうとした形跡はないようです。

「バッハマンのような当時の職人に才能がなかったわけではなく、正確なコピーを作ることが求められていなかったことや、1mm単位で忠実なレプリカを作ろうとしていなかったことが理由のようです。そもそも当時は、長さにおける工業単位というものがありませんでした。当時は王国ごとに長さの単位が違ったのです。『王様の腕の長さ』が基本になっている国では、新しい王になると長さの単位も変わりました。ですから「腕の長さ3つ分」と言っても、時と場所によって違う長さになる可能性が出てくるのです。

面白いことに、ある資料には『バッハマンはベルリンで上等な楽器を製作しており、その価格は驚くほど安かった』と書かれています。彼の楽器はたった金貨2枚ほどの値段なのに、品質は10倍の価格のイタリアンヴァイオリンと同じだったというのです。一方で、別の資料では『バッハマンの楽器はよくない』と書かれています。このような違いも興味深いですよね」

さまざまな手法を試した上での製作

1つの製作スタイルを長い時間をかけて極めていく楽器製作者が多い中で、バッハマンは異なる製作方法を試しながら楽器制作に取り組んでいました。

宮廷で高く評価されてわざわざイタリアから買い入れられていた楽器や、国内外の名奏者が使うとっておきの楽器を見ていたからこその製作スタイルだったのかもしれません。新しいスタイルに常に刺激を受け、自身の技術を向上させるためにさまざまな製作スタイルを吸収することで、質が高くかつ低コストの最高の楽器づくりを目指していたのかもしれません。

「息子であるカール・ルドヴィグ・バッハマンは、18世紀の終わりごろに父アントンと仕事を始めました。作った楽器のラベルには、父アントン・バッハマンの名前を記していました。ですから、アントンが亡くなった1800年以降の楽器にも彼の名前が残っています。1816年に作られた楽器は、アントン作であるはずはなく、ほぼ確実に息子カール・ルドヴィグの手によるものでしょう。

現在展示中のチェロは、息子がまだ20歳だったことから、父親の楽器だと考えられています。しかし息子が1773年に作った可能性は拭えません。

今展示されているヴァイオリンの仕上げには、アントン・バッハマンが関わっていたことはほとんど確実だと考えています。アマティやストラディヴァリが工房の楽器の仕上げを見ていたのと同じですね」

(写真)同博物館に所蔵されているバッハマンのチェロはその作風をよく表している代表的な1台(コレクション5161番、Picture by Antonia Weiße)

謎の多いベートーヴェンクァルテット

同博物館のコレクションには、その他にも興味深い楽器群が存在します。そのひとつが『ベートーヴェン・クァルテット』です。

ヴァイオリン2台とヴィオラ、チェロが1台ずつのセットは、もともと作曲家ベートーヴェンが所有していた楽器だと考えられています。コレクションの一部ではありますが、同館創立に関わったヨーゼフ・ヨアヒムがドイツ・ボンのベートーヴェン・ハウスへ恒久的に貸与したことから、通常はベルリンの博物館で鑑賞することはできません。

4台の楽器のプロフィールは謎に包まれています。調査の結果、ヴァイオリン1台にニコロ・アマティ、チェロにアンドレア・グァルネリと書かれているラベルは偽物だということがわかっているのです。

興味深いのは、4台すべての裏板上部に、鋭く尖らせた鉛筆で”B”の文字が大きく刻まれている点です。ヴァイオリン1台とヴィオラ1台には、ベートーヴェンのイニシャル”LVB”のシーリングワックスも付けられており、チェロの横板底部にはベートーヴェンが直筆で紙に記名してシールのように貼り付けたらしい紙片も残されています。
ベートーヴェンが名前を刻むほどに執着したのかもしれないクァルテットの楽器。音色をいつか聴いてみたいですね。

▼ベートーヴェン・イヤーに際して、ベートーヴェン・クァルテットについて語るブリルメイヤー博士。チェンバロの腕前も披露(ドイツ語)

モッケル工房の楽器

博物館の展示フロア2階には、19世紀以降の弦楽器がまとめて展示されています。ブリルメイヤー博士が研究を始めた頃に取り組んでいたオズヴァルド・モッケル(Oswald Möckel,1843-1912)をはじめとする19世紀ドイツの製作者の楽器を鑑賞することができます。

オズヴァルドの工房では、息子であるオットー(1869-1937)マックス(1873-1937)という兄弟も働いていました。

マックスはヴァイオリンの形に非常にこだわった製作者で、彼が製作した楽器の裏板には黄金比率を意識した黒点が入っていることが特徴的です。
「マックス・モッケルは厳密にヴァイオリンのプロポーションを考えて製作していました。もちろん、それが良い音を作るための唯一の方法や比率ではありませんが」と博士。 

同博物館には、マックスの兄であるオットー・モッケルが晩年に製作したヴァイオリンも展示されています。1869年に生まれ、1937年に亡くなるまでベルリンで楽器製作家として活動したオットー・モッケルは、現代の私たちにとって近い存在です。

 

「オットー・モッケルは、今日のヴァイオリン製作のドイツの伝統においても重要な製作者です。彼は『Die Kunst des Gengenbaus(ヴァイオリン製作の手法)』という、1930年に出版されて以来、弦楽器製作の習得において重要な情報源となっている本の著者でもあります。1年ほど前、ベルリン郊外のある製作家を訪ねました。彼はオットーに直接師事した人で、現在93歳です。私たちは彼に短時間のインタビューを行い、個人的なつながりを持っています」


(写真)オットー・モッケルの娘と結婚したフリッツ・テニヒカイト(Fritz Tennigkeit)が描いたオットーの肖像画

 

18世紀のプロイセン王宮に仕えた職人の楽器、そして19世紀のベルリンで作られた端正なヴァイオリン。年代を追ってそれらの楽器を眺めていくと、ヨーロッパ各地から入ってくる情報に対して柔軟に変化し、戦略的に楽器づくりに取り組んだ製作者たちの姿が浮かび上がってきました。

なお、18世紀にフレデリック大王に仕えていた中で、今でも作曲家として知られている音楽家の中には、C.P.Eバッハやヴァイオリン奏者でもあったフランツ・ベンダがいました。ベンダのヴァイオリン協奏曲などを、当時の雰囲気を想像しながらぜひ視聴してみてくださいね。


▼フランツ・ベンダの「ヴァイオリン協奏曲ニ短調」 



◆ベルリン楽器博物館(Musikinstrumenten-Museum)公式サイト
https://www.museumsportal-berlin.de/en/museums/musikinstrumenten-museum-simpk/

Text : 安田真子(2016年よりオランダを拠点に活動する音楽ライター)