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11月9日の夜、ベルリン市内のブランデンブルク門前では壁崩壊30周年を祝うステージが繰り広げられた
(c)Martin Diepold

ベルリンの壁と音楽家たち 《前編》 in Berlin

西洋音楽における中心的な都市の一つであるドイツ・ベルリン。歴史上では冷戦下、28年間にわたって東西2つに分割され、東はソ連に、西はアメリカ・フランス・イギリスに統治された町としても知られています。

1931年生まれのルドルフ・ヴァインスハイマーさん、そして1933年生まれのアレクサンダー・ヴェドウさんは、元は西ベルリンだった地域にあるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(以下ベルリン・フィル)でチェロ奏者として活動していました。壁が設けられる前のベルリンに始まり、壁が作られ東西に分割された28年間、さらに壁が崩壊してから現在に至るまでの30年間を知る生き証人です。

30周年の節目に当たる今年、壁が崩壊した記念日に、ヴァインスハイマーさんのご自宅で当時についてのお話を伺いました。前編と後編の2回に分け、激動の時代のベルリンで音楽家として生きた二人の声をお届けします。


(写真)壁があった時代に東西ベルリンの通行を管理していた国境検問所(西側の通称『チェックポイント・チャーリー』)の跡地は今でも残されている

東ベルリンの元職場へはもう戻れない

1961年8月。西ベルリンを囲む『ベルリンの壁』が作られはじめたことを知って、ヴェドウさんは一つの大きな決断をしました。1957年から勤めていた東ベルリンにあるコーミッシュ・オーパーのオーケストラを自主的に退団することに決めたのです。

「壁ができる前は、国境はあったものの形式だけで、パスポートがなくても普通に電車さえ乗れば東西ベルリンを往復できました。私は東ベルリンに勤めていたので東ドイツのお金で給料をもらっていましたが、住んでいたのは西ベルリンだったので、特定の場所において給料の三分の一を一対一のレートで西ドイツの通貨に両替することができていました。家賃などの生活費に困らないよう特別なレートで交換できたのです。逆のパターンで、東に住みながら西に勤めていた音楽家や他の業種の人もいて、それは一般的なことでした」(ヴェドウ)

それがある日突然、変化を迎えました。

「壁が作られる前日の1961年8月12日、私は休暇からベルリンに帰ってきました。壁が作られた当日、私は西ベルリンにいたのですが、自分の個人のチェロ東ベルリンのコーミッシュ・オーパーのロッカーに入ったままでした。そのままにしてはいられないので、私は東ベルリンに入りました。入れたのはコーミッシュ・オーパーに勤めているという身分証明書があったからで、無事に楽器を持ち出してまた西側に戻ってくることができました。それが壁が作られてから初めて東に入ったときのことです。

その後、コーミッシュ・オーパーのメンバーのための集会が開かれ、『東の人も西の人も、年金生活に入るまでクビになることはありません。このまま働き続けることができます』と告げられました。しかし、私は退職願いをもう準備してあって、それを上司に渡し、本日をもって退団することを伝えました。そしてそのまま、二度と東側に戻ることはありませんでした。

退職した理由は、たった2度東ベルリンに行っただけなのに、その時に周りの人たちの残酷な運命を目にしたことです。家族がばらばらにされたり、夫婦が生き別れになったり、西側に勤めていた人がもう西では働けなくなって心臓を病みながらも東側で重労働をさせられているというケースなど……それらを全体的に見て、これは自分の将来には向かない環境だと理解し、決心して退団したのです。労働契約上、そのような退団の仕方は禁止されていたので、そういった意味では契約違反でした。だからもう二度と東ベルリンには戻れなかったのです」(ヴェドウ)



アレクサンダー・ヴェドウさん

12人目のチェリストの入団

西ベルリンは東ドイツの領域に囲まれており、地理的にいえば陸の孤島でした。したがって、新しい仕事を探すために西ベルリンを離れるときは東ドイツを通過しなければならず、ドイツ国内であっても列車では出られないので、毎回飛行機で出かけていたとヴェドウさんは語ります。
そのようなある日、ベルリン・フィルのマネージャーからヴェドウさんに一本の電話が入りました。

「きっかけとなったのは、私の大学時代の仲間のヴォルフガング・ベッチャークリストフ・カプラーでした。ベルリン・フィルに勤めていた彼らが、マネージャーに私のことを推薦してくれたのです」

ベルリン・フィル入団のためのオーディション当日のことは今でもはっきり覚えていると言います。

「すごく寒い日の朝10時のことでした。今のベルリン・フィルハーモニーがまだ無かった時なので、会場は現在のベルリン芸術大学コーラスホールでした。実は、遅刻していたのです」(ヴェドウ)

一方、ヴァインスハイマーさんは団員としてそのオーディションに参加していました。
「他のメンバーは皆揃っていたのに、ヴェドウさんだけが来なくて、でもうそろそろ帰ろうかという時にヴェドウさんが現れたのですよね」と言葉を接ぎます。

「コーミッシュ・オーパーのオーディション時刻とベルリン・フィルの予定時刻に微妙に差があって、コーミッシュ・オーパーのときの慣れでいつもの時間に来たら遅刻だったのです。到着してすぐに弾き出さないと他の人は帰ってしまうと言われたので、指がとても冷えていましたが、それを温める暇もなく、ラロの協奏曲を弾きはじめました。ハイドンではなかったことが幸運でしたね。そうしてオーディションに運よく合格し、ベルリン・フィルの職に就くことができたのです」(ヴェドウ)
「実は当時、西ドイツの色々なオーケストラでは、ヴェドウさんのように東ドイツに勤めていた音楽家はもう東側には行かなくなるだろうという話が広まっていたので、彼らのための新しい雇用先をそれぞれの団体が用意していました。新たに受け入れるため、スペースを作ったのです。
当時、彼がベルリン・フィルに入る前は、11人のチェリストがオーケストラに所属していた。ですから、もしも壁が作られず、彼がそのままコーミッシュ・オーパーで演奏を続けていたら、今の12人のチェリストたちは存在せず、11人のチェリストたちだったかもしれません。12人目として入ったのが彼で、そこで初めて12人のチェリストが揃ったのです」(ヴァインスハイマー)

ベルリンの壁が与えた影響


 チェロ・アンサンブルの代名詞とも言える『ベルリン・フィル12人のチェリストたち』の誕生につながる出会いがあったことは喜ばしいのですが、その一方で、ベルリンの壁の存在はは市民に大きな衝撃を与え、人々の心を傷つけていたようです。

「壁が作られた当時、私は実際にそれを目で見ることはありませんでした。壁ができる前に色々な人から噂を聞いていて、本当に壁が作られはじめたら私の子どもたちは興味津々で見に行っていましたが、私自身はもう見ていられないという思いでした。想像がつかなかったですし、ベルリンを真っ二つに割って、引き裂くような行為は目にしたくなかったのです」(ヴァインスハイマー)


                                          ルドルフ・ヴァインスハイマーさん
1963年にはベルリン・フィルの活動場所として現在の場所にベルリン・フィルハーモニーのホールが建設されました。ベルリンの壁はホールの近くに建っており、フィルハーモニーの団員たちにとってはごく身近な存在だったようです。

「故意に、できるだけ近くに建設されたのではないかと私は思っています。フィルハーモニーのバルコニーに立つと、壁の向こう側に(東からの逃亡者がいないかを見張る)監視員や監視の犬がいる様子がはっきり見えました。フィルハーモニストとしては、『日本など世界中へは旅をすることができても、100メートル先のあそこへはいけないのだ』ということを強く実感していました。警官がパトロールで通過したらこちらから挨拶したり、手を振ったりすることはありましたね」(ヴァインスハイマー)


ベルリン・フィルの国際化につながる人材の流れ

壁ができたことで、ベルリン・フィルのメンバーの顔ぶれが変化したとヴァインスハイマーさんは語ります。

「壁が作られる前までは、東ドイツのチューリンゲン州やザクセン州など、街でいうとライプツィヒやドレスデンなどから物凄く優秀な若手の音楽家が入ってきていた。しかし、壁ができてからその新人の流れが無くなったのです。というのも、ベルリン・フィルは噂では良いオーケストラでも、言ってみれば『囲まれた町である西ベルリンにあり、そこには住みたくないし働きに行きたくない、という考え方が広まっていたのです。そのため、東ドイツから優秀な若手が来なくなった。その意味で、壁が作られたことによってベルリン・フィルは苦労しました。
その一方で、どうやら壁が作られたあとになって、例えばアメリカ合衆国や日本といったその他の国から音楽家が来るようになりました。そのため、どちらかというと国際的なベルリン・フィルにつながったといえるでしょう」(ヴァインスハイマー)

歴代初めての女性フィルハーモニストも入りましたし、旧東ヨーロッパのポーランド人はベルリンに入ることが許されていたので、そこからもベルリン・フィルに入るようになったのです」(ヴェドウ)

東ドイツのライプツィヒで演奏を叶えたチェリストたち

当時、東ドイツはソ連軍によって統治され、西ドイツはアメリカ・フランス・イギリスの三国に分割統治されていました。その関係で、同じドイツ国内であっても、東ドイツの町で開かれる西ベルリンの音楽家の演奏会にはある種の制限があったようです。

「コーミッシュ・オーパーを退団してからずっと、東ドイツには一歩も足を踏み入れていませんでしたが、壁が作られてから15年後の1976年になって初めて東ドイツのライプツィヒに行き、ベルリン・フィル12人のチェリストたち(以下12人のチェリストたち)の一員として演奏しました。壁が作られてから、西ベルリンの団体として初めて開かれたライプツィヒでの演奏会でした。そのコンサートが行われたきっかけは、私がコーミッシュ・オーパーにいたときの主任指揮者だったクルト・マズアにあります。彼はライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者も務めていて色々なコネクションを持っており、有名指揮者として自由に移動できた。彼の助力があって公演を実現させることができたのです」(ヴェドウ)

「12人のチェリストたちの公演はライプツィヒの動物園の近くにあるホールで開かれ、その後もそこでもう一度行いましたし、ドレスデンでも、東ベルリンでもコンサートを開きました。
しかし、東ドイツではコンサートに呼ばれたのはいいものの、演奏の前後には周りの東ドイツの人とは一切口をきいてはいけなかった全てが秘密警察に見張られる中で演奏をしたのです。
ちなみに、ライプツィヒに行くためにはチャーター機でオーストリアのザルツブルグからドレスデンに飛んで、そこからライプツィヒへ車で移動する必要がありました。そういった特殊な状況の中でコンサートを行ったのです」(ヴァインスハイマー)

東ドイツの秘密警察に見張られながら、東ドイツ人とは言葉を交わすことができないという条件下であっても、音楽家たちは演奏を通して聴衆と心を一つにすることができたようです。

「東ドイツの町で演奏をする度にスタンディングオベーションをもらいました。ライプツィヒでアンコールとしてビートルズのイエスタディ』を弾いたら、聴いている人たちはもうお祭り気分になって、拍手したり、お互い抱擁しあったり……ものすごく受けがよかったですね」(ヴァインスハイマー)

(後編につづく)
取材・文/安田真子

プロフィール:オランダ在住。音楽ライター、チェロ弾き