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バイオリン商 デビッド・ローリーの回想録
第6話 初めての取引


ある日、ブラッセルに住むN.F.ヴィヨーム氏を訪ねると、彼はちょうど外国から着いたばかりの荷物をほどいているところだった。 どういうわけか、難しそうな顔をして中のヴァイオリンを調べている。「この楽器を全部修理して調整すると、どうやら楽器の価値以上の時間がかかりそうだ」と、がっかりしたふうに呻いている。

「ローリー、どうだろう。ここにある半ダースのヴァイオリンを持っていかないかい。最近は楽器が見つからなくなっているらしくてね。ここにあるヴァイオリンも、長いこと私のために集めてくれている人が選んで送ってきたものだけど、どうみてもがちゃにすぎないんだ」と、残念そうに言い、さらに続けて、

「僕自身、この全部の楽器をベストの状態にするだけの時間がないんだ。多分、英国の製作家なら買うだろうから、僕の買値のままでいいから、もっていかないか」と言うのだ。

彼は1,200フランの領収書を私に見せた。私は丁寧に、1本1本を調べてみた。すべてが駒さえも立っておらず、とても弾ける状態とはいい難いものばかりだった。ひどいものになると指板さえもとれてしまって無いものもあった。ラベルをのぞいてみると、良く聞く有名な名前が3本(ブレシア派のJ.B.ルジェーリ、ミラノ派のC.ランドルフィー、フィレンツェ派のJ.B.ガブリエリ)と、無名なものが3本である。
私は、ひとつ冒険をしてみようかという心が動いて、申し出を受けることにした。さっそくロンドンに持ち帰って、ワーダー通りの主な3人の業者に見せてみた。最初に訪ねた人はじっくりながめ回してから値段を聞いた。

「卸値で60ポンド」と、やや高めに答えると、「私の知ったことではないがね…」と前置きして、
「もしこの楽器が自分のものだったら、その半額でもいいから喜んで処分するだろうね」と言った。

他の2人も訪ねてみたが、ほとんど同じ反応だった。それ以来、私は楽器の卸売りはやめることにした。家に持ち帰った楽器は、丁寧に箱にしまって、しばらくの間、戸棚の中にしまい込んだ。
それから6ヶ月ほど経った頃、また外国へ出掛ける用事が出来た。出発当日になって、ふと例の楽器のことを思い出したのて、箱から出してみた。私は、ルジェーリと、ランドルフィーを手に持って出ることにした。

フランスのある田舎町の製作家にこの二本を預けて、2~3週間後、私が戻るまでに駒を立てて弾けるように調整しておくようにと頼んだ。

所用を済ませて楽器を取りに行ってみると、驚いたことに、外観までがすっかり見違えるほどになっているではないか。二本とも修理前の楽器とは、どう見ても同じものに見えないほどに良くなっていた。
彼の話だと、修理中にたまたま店に来た人が、ルジェーリを見て、24ポンドで売ってほしいと頼んだそうである。人から頼まれた修理品だからと断っても、「では32ポンドならどうだろうか」と、更に交渉を求めているという。

私は丁重にその話を辞退して、2丁のヴァイオリンはロンドンへ持ち帰った。今度はルジェリが35ポンド、ランドルフィーも20ポンドで売れてしまった。残りの4丁も、時を置いて処分した。


この経験によって、私はいくつかの貴重な教訓を得ることが出来たと思う。第一に、25ポンド以上する楽器は、どんなものでも手を加える前に見せてはいけないこと。たとえ相手が業者であっても同じことがいえよう。もう一つは、すてに今までにも体験したことではあるが、自分の期待感が実現されそうもない時でも、気落ちせずにじっと耐えるべきことを、改めて学んだように思う。

当時の私が、他の楽器商の人達とはっきり違う点は、私自身の別の仕事を持っていたので、楽器の売買で生計を立てていなかったということだろうか。
当時の楽器商の人達が、良い楽器の価値がわからないから買い控えていたというわけではない。むしろ彼らは、私と同じようによくその価値を知っていたものだ。ただ、楽器を修理、調整することは、大変手間がかかると考えたのだろう。

それに、このルジェーリや、ランドルフィーというクラスの楽器の売れ方というのは、決して多くはなかったし、手がけても無駄という結論だったのだろう。当時の楽器商たちは、自分の日や知識で良い買い物も出来たし、何らかの理由で楽器を手放さざるを得なくなった人達から、イタリアの名器などが安く持ちこまれることも、再三、再四あったものだ。

ただ、そういう傾向も、次第に変化の兆しが見え始めてきていた。この頃、再びイタリア製の楽器の需要が高まってきたために、イタリアの国内でも自国製の楽器を入手しにくくなってきていた。

気がついてみると、イタリアの名器のほとんどは、イタリアの国外へ持ち出されてしまっていたのだ。

第7話 〜二人のチェロ奏者・その1〜へつづく