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1984年から1993年まで、文京楽器が発行していた季刊誌Pygmalius(ピグマリウス)より、インタヴュー記事を復刻掲載します。当時、Pygmalius誌では古今東西のクラシック界の名演奏家に独占インタヴューを行っておりました。
レジェンドたちの時代を超えた普遍的な理念や音楽に対する思いなど、心に響くメッセージをどうぞお楽しみください。
ぼくの家の隣に物好きなヴァイオリンの先生がいましてね、「赤ん坊は幾つくらいからヴァイオリンを弾くことができるだろう」なんて、変な好奇心をもったらしい(笑)。2歳の誕生日に、ぼく、ヴァイオリンを持たされちゃった。
物心がつくようになっても、一向に面白くならなかったですよ。学校から帰ると、まず母親が「練習しろ」なんです。練習をさぼると、お灸をすえられたり、物差しでひっぱたかれたりする(笑)。
ヴィオラのデビューは18歳のときだったかな?桐朋学園大学ではヴァイオリンもヴィオラも両方弾かされてましたけど、あるとき、室内楽の演奏会があって、徳永二男さんがファーストヴァイオリン、兼一郎さんがチェロ。セカンドはだれだったかなぁ..。で、ヴィオラがいない。「岡田、弾いてくれ」。それから間もなく、19歳のときに、東京交響楽団のコンサートマスターになったんです。
当時、19歳でコンマスになったのは、徳永二男さんに次いで二番目でした。お金をいただいて、初めて音楽が面白いと思えるようになった(笑)。ゆくゆくはヴィオラの首席に、というのが楽団の考えだったんでしょう。ヴィオラの首席をやることになって、その頃からだんだん、ヴィオラが好きになってきたんです。
そしたら、二男さんと僕がコンマスとヴィオラでN響に呼ばれたんですよ。二男さんは「ばくは絶対行かないけど、岡田は行ったほうがいいよ」と言う。
ぼくは、入るのはいいけど、ちゃんと勉強してからヴィオラ弾きになろうと思って、「2年たったら帰ってきます」って、仮契約みたいなことをして、ドイツに留学したんです。結局、15年間ドイツに居ついちゃった(笑)。
ドイツで最初に教わったのは、ジョランナというイタリア人の先生ですけど、レッスン受けても何も言わないんですよ。
それで次にモークという先生に頼みこんだ。「いやだ」というのを、しつこく食い下がってね。そしたら、「しばらく弾けなくなってもいいのか」と念を押されて、やっと重い腰を上げてくれたんです。
弓の持ち方、指の押さえ方、速度・圧力のかけ方、ひじの高さ...、もう全部違う。すっかり改造されちゃって、本当にしばらく弾けなくなったんです。ヴァイオリンの弾き方を流用しちゃ、いけないってことなんです。
ヴァイオリンは乗用車、ヴィオラはトラックなんですね。重みをかけて、しっかりハンドルを切るトラックと、軽い操作で切れる乗用車、この違いが分かった。
モークの元では、開放弦をずいぶんやらされましたね。この先生は、後にベルリン・フィルの首席になられて、現在はケルンの音楽大学の主任教授をされています。ぼくと10歳しか違わない。
ぼくはその後、ベルリン・フィルに2 年いて、バンベルグ交響楽団の首席を10年勤めたんですが、なんといってもモーク先生の影響が、いちばん大きかった。
自分でヴィオラを買ったのは、21歳のときかな?ヴィオラの先輩から、フランスのシルベスターを譲ってもらった。ヴァイオリンと違って、ヴィオラは必ずしもイタリアン・オールドじゃなくてもいい音が出せます。中途半端な楽器よりも、新作の楽器のほうがいい。シルベスターのあと、ガリアーノ、テストーレ、ヨーゼフ・ロッカと変えて、今はマジーニ。これは古い楽器ですが。
楽器は大きさで変えていったんです。大き過ぎて、肩や指が痛くなって体をこわしたこともあったくらい。望ましいのは、アマーティ、ダ・サロですけど、数が限られているから手に入らないんです。
一度、ヨーゼフ・ロッカを持ってるときに、舞台から落っこったんです(笑)。2 回転ぐらいしたけど、楽器はこわさなかったですよ。
そのときの指揮者のシュタインが、「ヴィオラの首席は、オカダみたいに柔道の受け身をやってもらわないと困る」って、ドイツのいろんなところへ行って、言ってたそうです(笑)。