弦楽器メルマガ
BG Newsletters 配信中!
BG Newsletters に登録する登録する

日曜・月曜定休
Closed on Sundays & Mondays

10:30~18:30

112-0002 東京都文京区小石川2-2-13 1F
1F 2-2-13 Koishikawa, Bunkyo-ku,
Tokyo 112-0002 JAPAN

後楽園駅
丸の内線【4b出口】 南北線【8番出口】
KORAKUEN Station (M22, N11)
春日駅 三田線・大江戸線【6番出口】
KASUGA Station (E07)

文京楽器の弦楽器フェア2022
特別展示『20世紀のフレンチ・ボウ』
〜 L'ARCHET du XXe siècle

文京楽器の弦楽器フェア2022
2022年11月18日 金曜日 -12月17日 土曜日
@ 文京楽器 ショールーム1F

はじめに

 19世紀後半、当時主流であった「ぺカット・モデル」から脱却して、ヴォワランが生み出したのは、ヘッドが小さく演奏性に優れたエレガントな弓でした。こうしたヴォワランのコンセプトが、本格的に花開くのは20世紀になってからのことです。


20世紀前半のパリでは、ラミートマッサンフェティークヴィネロン、サルトリーらが個性豊かなスタイルで活躍しました。一方、ヴォワランの影響はコマーシャル・ボウの製作拠点であったミルクール*にも及び、バザンモリゾーの工房を中心に良質な弓が数多く生み出されました。

20世紀後半になると、ヘッドが大きく男性的な「ぺカット・モデル」の再評価がはじまります。「ニュー・ぺカット・スクール」という新たな潮流が生まれ、シャルドンミランらが活躍しました。


20世紀のフレンチ・ボウは、機能性に優れており、洗練されたスタイルが特徴的です。そのため、近年専門家だけでなく演奏家の注目も集めています。また、これらの弓は現実的に演奏家が所有できる弓でもあります。


今回の展示会では、私どもが厳選した全26本の弓をわかりやすく系統立てて展示いたします。またその魅力を心ゆくまで体感していただけるよう、全作品どなたでも試奏が可能となっています。


*Mirecourt:フランスの北東部・アルザス/ロレーヌ地方の都市で、フレンチ・ボウの生産拠点であった。

展示会概要

期間:2022年11月18日(金)〜12月17日(土) ※日・月曜定休
時間:10:30〜18:30
会場:文京楽器ショールーム
   東京都文京区小石川2-2-13-1F Googleマップ

期間内、展示作品の中から、お好きな作品を自由にご試奏頂けます。
混雑をさけるため、ご試奏は事前予約制となります。

解説

1.フレンチ・ボウの救世主、フランソワ・ニコラ・ヴォワラン

 ヴォワラン
 コラム :刻印の話 〜「作者」VS「ヴァイオリン工房」!?

2.パリで活躍した20世紀のフレンチ・ボウ・メーカー

 ラミー・ファミリー
 トマッサン・ファミリー
 フェティーク・ファミリー
 ヴィネロン・ファミリー

 ユージン・サルトリー
 ジレ
 ニュー・ぺカット・スクール

3.ミルクールで活躍した20世紀のフレンチ・ボウ・メーカー

 ウーシャ・ファミリー
 バザン・ファミリー
 モリゾー・ファミリー
 ロッテ・ファミリー
 J.T.L.
 マルク・ラベルト

1.フレンチ・ボウの救世主、フランソワ・ニコラ・ヴォワラン

ドミニク・ぺカットが去った1850年頃のヴィヨーム工房では、弓製作者の不足が深刻化していました。そんな頃に工房にやってきたのが、フランソワ・ニコラ・ヴォワランでした。彼の最も大きな功績は、それまで主流であった力強いペカット・モデルを、エレガントな独自の作風へと変革したことです。当時、ロマン派音楽は隆盛を極めており、楽曲は複雑化していました。演奏者に求められる技量や奏法にも当然変化があり、時代にあった弓の開発が必要だったのです。


表1:ぺカット・モデルとヴォワラン・モデルの違い
 

名称

ヘッド形状

フロッグ形状

スティック反り

バランス

ペカット

大きなハチェット
(まさかり)ヘッド

高めでずんぐり
とした正方形

全体に自然な反り

やや先重

ヴォワラン

小さなスワン
(白鳥)ヘッド

やや低めで横長の長方形

 首元と手元にしっかり
とした反り

手元重心


ヴォワランの革新的なスタイルは、彼の助手を務めていたジョセフ・アルフレッド・ラミー(ラミー・ペール=父)、シャルル・クロード・ウッソン(ユソン)ルイ・トマッサンらに伝わりました。この新しい潮流はミルクールにも瞬く間に広まり、ウッソンバザンクニオ(キュニオ))など有力な工房の製作スタイルに影響を与えました。

 
Violin bow
VOIRIN, Francois Nicolas
Paris ca.1880
 Sold

 
a
コラム:刻印の話 〜「作者」VS「ヴァイオリン工房」!?

19世紀〜20世紀前半に製作されたフレンチ・ボウには、優れた製作者の弓であっても、『ガン&ベルナーデル』や『カレッサ・フランセ』など、ヴァイオリン工房の刻印がされているものが数多くあります。そもそも、フレンチ・ボウは、18世紀の終わりにF.X.トルテが近代弓を発明し、それに目をつけたJ.B.ヴィヨームが弓工房に力を入れたことで発展してきました。ヴィヨーム工房がなくなったあとでも、有力なヴァイオリン工房が弓製作家に発注し、その刻印で製作することは極めて普通のことだったのです!


ヴィヨームが存命していた当時はむしろ、製作者本人による刻印の弓よりも、ヴィヨームの刻印の方がより高価でラグジュアリーだったと認識されていたようです。弓における作家性を重んじる現代の潮流は、グローバルに活躍したユージン・サルトリーやE.A.ウーシャがその先駆けです。本質的な弓の価値を見極めるには、歴史的背景も十分理解することが必要なのです。

2.パリで活躍した20世紀のフレンチ・ボウ・メーカー


こうして、ヴォワランによってもたらされた細身でエレガントな作風は、ラミートマッサンフェティークらに引継がれて発展をしていきます。一方ヴィネロンマルタンに師事したため、ヘッドもやや大きめでスティックも肉付きが良いのが特徴です。ヴォワランの影響は見られるものの、ラミー系の弓とは一線を画しています。音色が暖かく滑らかな弾き心地を実現したため、演奏家に人気がありました。


こうした二つの流れを統合し昇華させたのが、サルトリーです。20世紀にはいると金属製の弦も普及しはじめ、ヴィルトーゾと呼ばれる超絶技巧のヴァイオリニストが活躍します。多彩な表現力と豊かな音量が求められるようになったのです。こうした時代の要求に見事に応えたのがサルトリーの製作した弓でした。


第二次世界大戦が影を落とす1940年代、『ニュー・ぺカット・スクール』と呼ばれるぺカット・モデルへの回帰が起こります。これはヴォワランにはじまった操作性への希求が転換点を迎え、音色と表現力の追求へとシフトした結果でした。ピカソのゲルニカに見られるように、この未曾有の時代に、美の嗜好が抽象的・原始的なものへとシフトしていることも見逃せない背景であると思います。 


それでは、パリで活躍した主要なメーカーをファミリーを機軸に見ていきましょう。

ラミー・ファミリー


ジョゼフ・アルフレッド・ラミーは、1885年にヴォワランが亡くなると独立して工房を構えます。ヴォワランのスタイルを受け継ぎ、演奏性に優れたエレガントな弓を製作しました。後にイポリット・カミーユジョルジュ・レオンの二人の息子が工房に加わりました。ラミー工房で製作された弓は、”A. LAMY A PARIS”の刻印が使用され、当時の慣習であった、ヴァイオリン専門店の刻印で製作されることはほとんどありませんでした。

ちなみに、第一世代の父と第二世代を明確に区別するために、慣例としてジョゼフ・アルフレッド・ラミーラミー・ペール(父)と呼びます。ラミーは総じて、比重の重い褐色のペルナンブコ材を好み、細身でしなやかなスティックで製作しました。

写真:A.ラミーの名刺 /出典元:『FRENCH BOW MAKERS A CONCISE GUIDE(Anton Lu 著)』41ページより
 
Violin bow
LAMY, Joseph Alfred "père"
Paris ca.1900

 
 

トマッサン・ファミリー


ルイクロード・オーギュストヴィクトルの3人トマッサンは、いとこ同士でした。

ルイ・トマッサンは、 ヴォワランのもとで長年にわたって研鑽を積みました。そのため、最も師匠の影響が色濃く、細身のスタイルで製作しました。

クロード・オーギュスト・トマッサンは、最も製作数が多く、よく知られています。ミルクールのバザン工房で製作の基礎を学び、パリのガン&ベルナルデルの工房で研鑽を積みます。この時期にヴォワラン・スタイルの洗礼を受けたようです。ガン&ベルナルデルがカレッサ・フランセに引き継がれるタイミングで独立しました。ちなみに、彼の作風の代名詞は、角が丸みを帯びたフェルールです。

ヴィクトール・トマッサンは、バザン工房で弓製作を学び、イギリスに渡り弓製作に従事しました。そのため、貝目のないフロッグや、すべて金属で覆われたボタンなど、イングリッシュ・ボウのスタイルで製作しました。「T.Victor」の刻印を使用したため、通称T.ヴィクトールと呼ばれています。

写真:C.トマッサンの手紙 /出典元:『L'Archet vol.III(B.Millant,J.F.Raffin 共著)』84ページより
 
Violin bow
THOMASSIN, Claude
Paris ca.1920 stamped ”Laurent”

 

フェティーク・ファミリー


ヴィクトール・フェティークは、ミルクールで製作の基礎を学び、その後パリに出てカレッサ・フランセで働きました。この時期にクロード・オーギュスト・トマッサンの製作スタイルに大きな影響を受けました。1913年にパリで独立すると、徐々に独自のスタイルを確立していきました。

弟のジュール・フェティークは、ユージン・サルトリーに協力した最も優秀な製作者でした。自身の刻印で製作した弓にもその影響が色濃く見られ、特にスティック形状は、ヴィクトール・フェティークよりもむしろサルトリーに近いと言えます。

マルセル・ガストン・フェティークは、ヴィクトールの息子で、父のスタイルを踏襲して優れた弓を製作しました。

写真:ヴィクトール・フェティークの肖像(写真中央の人物) /出典元:『LES ARCHETIERS DE LA FAMILLE BAZIN 1824-1987(J.F.Raffin, Y.Le Canu, S.Bigot, A.Dubroca, L.Mabru 共著)』127ページより
 
Violin bow
Fetique, Jules
Mirecourt ca.1905 stamped ”Brugere a paris”

 
Violin bow
FETIQUE, Victor
Paris 1924 "EXPO1924"

 
Violin bow
FETIQUE, Marcel
Paris

 
 

ヴィネロン・ファミリー


ジョゼフ・アルチュール・ヴィネロン(通称:ヴィネロン・ペール=父)は最初、ミルクールのウッソン(ユソン)の工房で、ラミー・ペールシャルル・クロード・ウッソンとともに弓作りを学びました。その後はミルクールに戻っていたマルタンのもとでさらに研鑽をつみます。パリに出て、ガン&ベルナルデル工房で働いたあと、独立しました。

ヴィネロンの製作スタイルは、やや男性的で、無骨なヘッドと肉付きが良いスティックが特徴です。ヴォワラン・スタイルを踏襲したラミートマッサンフェティークの細身でエレガントな作風と比べると野暮ったい印象があります。ところが、音色が暖かく演奏性に優れているため、当時の著名な音楽家に愛されました。

1905年にヴィネロン・ペールが亡くなると息子のアンドレ・ヴィネロンが工房を引き継ぎ、父と同様に音色がよく演奏性にすぐれた弓を製作しました。

写真:J.A.ヴィネロンの名刺 /出典元:『FRENCH BOW MAKERS A CONCISE GUIDE(Anton Lu 著)』41ページより
Violin bow
VIGNERON, Joseph Arthur
Paris ca 1900 Sold

 

ユージン・サルトリー


ユージン・サルトリーは、ミルクールで弓製作の基本を学んだあと、パリに出てシャルル・ぺカットラミー・ペールの工房で研鑽を積みます。1889年若干18歳で独立、様々な展覧会に出品して好評を博し、その評価を確立していきました。

初期の作品はラミーの影響が色濃く、やや細身のエレガントなスタイルで製作しました。褐色のペルナンブコを好み、フロッグは、シングルアイの貝目、ボタンは金属に黒檀がサンドイッチされたスリーピースで製作しました。

1920年代になると独自のスタイルへと発展します。ヘッドも肉付きが良くなり、スティックも、オレンジ系の明るめの素材が多く採用され、形状もさらに肉付きの良い流線型となります。フロッグには二重目のパリジャンアイが、ボタンは全て金属で覆われたキャップ式が採用されました。

これらの特徴はヴィネロンとの共通点が多くみられます。最近の研究で、ヴィネロン・ペールがサルトリーの義理の叔父であることが明らかとなり、この二人の偉大なメーカーの間には直接的な関係があると考えられるようになりました。

またサルトリーは、優れたマーケターでもありました。ヴィルトーゾのイザイと親交を結んでベルギー・ブリュッセルで活躍したり、第一次世界大戦後のヨーロッパの経済不況が訪れると、1921年先駆けて新大陸アメリカを訪れて市場を拡大していきました。

こうして増大するニーズに応えるために、サルトリーには協力者が数多くいました。中でもルイ・モリゾージュール・フェティークルイ・ジレが有名です。

写真:E.サルトリー、1922年頃の肖像 /出典元:『Eugene Sartory(Edition de la Rue de Rome)』31ページより
 
Violin bow
SARTORY, Eugene Nicolas
Paris ca.1910

 
Violin bow
SARTORY, Eugene
Paris ca.1925-30

ルイ・ジレ


ルイ・アンリ・ジレはで生まれ、直ぐにミルクールへ移り製作を学びました。1906年から1911年にジェローム・ティボヴィーユ・ラミーの下で働いたのち、マルク・ラベルト工房を経て、1930年頃にディジョンの南に位置するシャロン・シュル・ソーヌにて自身の工房を構えました。彼は多くのヴァイオリンショップや工房へ弓を納めており、これら初期の作品には"LAVEST"スタンプが押されたものが多く存在します。

写真:L.ジレの肖像 /出典元:『L'Archet vol.III(B.Millant,J.F.Raffin 共著)』320ページより
 
Violin bow
GILLET, Louis
Paris ca.1935 stamped "J.LAVEST"

 

ニュー・ぺカット・スクール


1940年頃になると、パリではジュール・フェティークアンドレ・シャルドンが、ハチェット(まさかり)型の力強いヘッドを持つ、ぺカット・モデルで製作しはじめました。この潮流はパリで流行し、20世紀の後半にぺカット・モデルで製作した弓製作者を『ニュー・ぺカット・スクール』と呼びます。

シャルドンの後継者のジャン・ポール・ロクセロワジャック・オーディノジャン・ジャック・ミラン、弓の鑑定家として著名なベルナール・ミランらがこのスタイルで製作しました。

この時期のパリでは、*ヒル型フロッグも流行しました。エミール・オーギュスト・ウーシャは、アメリカに渡るまでの1940〜1946年、パリで製作しましたが、彼はこの時期にヒル型フロッグを取り入れ、のちに彼の製作スタイルの代名詞となりました。

*手元の八角スティックを段付きにして、取り付けられるフロッグ。ロンドンのヒル商会で製作された弓に採用されたためヒル型フロッグと呼ぶ。


表2:20世紀フレンチ・ボウの特徴
これまでの取り扱いの経験から、製作スタイルから得られる弓の機能について、一般的な特徴をあえてまとめてみました。弓はスティックの素材に大きく左右されるため、実際はこの通りの結果にならないことも多いと言えます。さらには素材の経年変化や弾き込みから得られる熟成音や弾き心地もアンティーク・ボウの大きな魅力です。したがって、あくまでモデルのコンセプトを深く理解するツールとして活用していただければと思います。
 

製作スタイル

演奏性

音量

表現力

音色

ラミー

とても良い

良い

良い

クリア
フォーカス

ヴィネロン

良い

とても良い

とても良い

ウォーム
オープン

サルトリー

優れている

優れている

とても良い

ブライト
フォーカス

ニュー・ペカット

とても良い

優れている

優れている

ブライト
オープン

Viola bow
MILLANT, Jean-Jacques
Paris ca.1970

Violin bow
CHARDON, Andre
Paris ca.1935-40
参考写真

3.ミルクールで活躍した20世紀のフレンチ・ボウ・メーカー

ウーシャ・ファミリー


エミール・フランソワ・ウーシャ(ウーシャ・ペール=父)は、1886年から1922年までユージン・クニオ(キュニオ)の工房で働いたあと、ミルクールで独立。厳選された材料を用いて、良質な弓を製作しました。

息子のエミール・オーギュスト・ウーシャ(ウーシャ・フィルス=子)は強い個性と非凡な才能を併せ持った弓製作家でした。そのため、親子関係は大変複雑であったと考えられています。1937年に一旦はミルクールの父の工房を引き継いだものの、1940年には家族を残してパリに移住します。さらに1946年には大戦で疲弊したフランスから新天地を求めて、アメリカへ渡り、ニューヨークやイリノイ州で活躍しました。1960年にはフランスへ帰国し、ガンで製作することになります。激動の人生です。

また、ウーシャ・フィルスには二人の息子がおり、それぞれ弓製作者になりました。兄のベルナール・ウーシャは1949年から1971年までの間、スイス・ジュネーブのヴィドゥデ社で働きました。その後、フレンチ・ボウの伝統の再興を願ってミルクールに設立された”弓製作学校”に招聘され、1971年から1979年まで教授を務めます。ステファン・トマショーエリック・グランシャンなど、現代の巨匠の多くはこの学校出身者です。ベルナール・ウーシャが、フレンチ・ボウの伝統を現代に引き継ぐキーマンとなったのです。

写真:E.A.ウーシャ、1951年頃の肖像 /出典元:『L'Archet vol.III(B.Millant,J.F.Raffin 共著)』400ページより
 
Violin bow
OUCHARD, Emile Francois
Mirecourt ca.1920 stmp "COLLIN MEZIN"

 
Violin bow
OUCHARD, Emile Auguste
Paris ca.1950

バザン・ファミリー


バザン・ファミリーは4世代にわたってミルクールで弓を製作した名門です。初代のフランソワ・バザンが急逝すると、二代目のシャルル・ニコラ・バザンは、若干18歳の若さで工房を継ぎました。三代目のシャルル・ルイ・バザンが、19世紀末に工房に入る頃には、バザン工房はミルクールで最も影響力のある工房となっていました。その栄光は20世紀前半まで続き、戦後は四代目のシャルル・アルフレッド・バザンが工房を引き継ぎました。1987年にシャルル・アルフレッド・バザンが亡くなると、4世代にわたって続いた工房の伝統は幕を閉じました。

写真:C.N.バザンの肖像、1893年 /出典元:『LES ARCHETIERS DE LA FAMILLE BAZIN 1824-1987(J.F.Raffin, Y.Le Canu, S.Bigot, A.Dubroca, L.Mabru 共著)』106ページより
 
Violin bow
BAZIN, Charles Nicolas
Mirecourt ca.1910 stamped "LEO SIR a RENNES" Sold

 
Violin bow
BAZIN, Louis
Mirecourt ca.1925 stamped "Paquotte"

 
Violin bow
BAZIN, Louis
Mirecourt 1925

 
Violin bow
BAZIN, Louis
Mirecourt 1930

 
Violin bow
BAZIN, Louis
Mirecourt 1930

 
Violin bow
BAZIN, Louis 
Mirecourt ca.1935 stamped "LOUIS BAZIN"

モリゾー・ファミリー


ルイ・モリゾー(モリゾー・ペール=父)は、ユージン・キュニオシャルル・ニコラ・バザンの薫陶を受けて弓製作を身に付けました。後にユージン・サルトリーの共同製作者を努め実力をつけました。第一次世界大戦が終わるとミルクールでは、JTL(ジェローム・ティボヴィル・ラミー)やマルク・ラベルトといった大きな工房が、コマーシャル・ボウを大量に生産していました。モリゾー・ペールも、5人の息子達(モリゾー・フレール)とともに普及品を大量に製作しました。1937年になるとモリゾー・フレールは独立します。この工房では、ロジェ・フランソワ・ロッテジャン・ジャック・ミランベルナール・ミランらが弓製作を学ぶなど、1970年に工房が閉鎖されるまでの間、フレンチ・ボウの伝統を次世代に引き継ぐ、重要な役割を果たしました。

写真:モリゾー工房の書簡 /出典元:『L'Archet vol.III(B.Millant,J.F.Raffin 共著)』370ページより
 
Cello bow
MORIZOT, Louis "père"
Mirecourt ca.1925

 
Violin bow
MORIZOT, Louis
Mirecourt ca.1945

 
Viola bow
MORIZOT "Freres"
Mirecourt ca.1950

 
Cello bow
MORIZOT "Freres"
Mirecourt ca.1955

 
Violin bow
MORIZOT, Louis "Freres"
Mirecourt ca.1960

 
 

ロッテ・ファミリー


フランソワ・ロッテはバザン工房の二代目シャルル・ニコラ・バザンのもと弓製作を学び、のちに義父となるウーシャ・ペールのもとで働きます。1926年に独立し、1960年頃になると息子のロジェ・フランソワ・ロッテが工房を引き継ぎました。1979年にベルナール・ウーシャが亡くなると、ロジェ・フランソワ・ロッテミルクール弓製作学校の教授を引き継ぎ、1981年に閉鎖されるまでその職に努めました。ちなみに現在ブリュッセルで活躍するピエール・ギヨーム氏もロッテ工房で研鑽を積みました。

写真: F.ロッテの邸宅/出典元:『FRENCH BOW MAKERS A CONCISE GUIDE(Anton Lu 著)』49ページより
 
Violin bow
LOTTE, Francois
Mirecourt ca.1930 stamped "Leon Bernardel"

 

ジェローム・ティブヴィル・ラミー工房


ジェローム・ティブヴィル・ラミー工房(通称、J.T.L.)は、19世紀後半のフランス・ミルクールを代表する大規模な弦楽器メーカー。最盛期には1000人を超える職人が働き、150,000丁を超える楽器を製作しておりました。その弓製作部門は、ジャン=ジョゼフ・マルタンのサポートを得て、1870年に始まりました。J.T.L.の主な弓製作者は、ジョルジュ・バルジョネオーギュスト・ウッソンマルセル・ラピエールなどがおります。しかしJ.T.L.では弓のモデルを規格統一していた為、どの製作者が作ったかを特定することは困難です。
 
Violin bow
THIBOUVILLE-LAMY, Jerome(J.T.L.)
Paris ca.1920 stamped "Darc"

 
Violin bow
THIBOUVILLE-LAMY, Jerome(J.T.L.)
Paris ca.1920 stamped "Rougirel"

マルク・ラベルト


マルク・ラベルトは、20世紀ミルクールを代表する大規模な工房を経営した製作者です。ラベルト工房では初心者用からソリスト用まで、あらゆるクラスの弦楽器と弓の製作を手掛けるため、たくさんの楽器職人、弓職人を雇用し、1930年代には500人もの職人が働いていました。 1920年代から60年代にかけて、良質な入門用弓といくつかのプロフェッショナル弓を製作しています。

写真:ラベルト工房の様子 /出典元:『L'Archet vol.III(B.Millant,J.F.Raffin 共著)』226ページより
 
Violin bow
LABERTE, Marc
Mirecourt ca.1930-40

 
 

お問合せ・ご予約

株式会社 文京楽器
東京都文京区小石川2-2-13 ザ・パークハウス小石川後楽園1F Googleマップ
TEL 03-5803-6969
火〜土 10:30~18:30
定休日:日・月

期間内、展示作品の中から、お好きな作品を自由にご試奏頂けます。
混雑をさけるため、ご試奏は事前予約制となります。