弦楽器メルマガ
BG Newsletters 配信中!
BG Newsletters に登録する登録する

日曜・月曜定休
Closed on Sundays & Mondays

10:30~18:30

112-0002 東京都文京区小石川2-2-13 1F
1F 2-2-13 Koishikawa, Bunkyo-ku,
Tokyo 112-0002 JAPAN

後楽園駅
丸の内線【4b出口】 南北線【8番出口】
KORAKUEN Station (M22, N11)
春日駅 三田線・大江戸線【6番出口】
KASUGA Station (E07)

連載『心に響く、レジェンドからのメッセージ』

1984年から1993年まで、文京楽器が発行していた季刊誌Pygmalius(ピグマリウス)より、インタヴュー記事を復刻掲載します。当時、Pygmalius誌では古今東西のクラシック界の名演奏家に独占インタヴューを行っておりました。
レジェンドたちの時代を超えた普遍的な理念や音楽に対する思いなど、心に響くメッセージをどうぞお楽しみください。

第24回 エルネ・シェベシュティーン / Ernö Sébestyen

引用元:季刊誌『Pygmalius』第24号 1989年1月1日発行
■エルネ・シェベシュティーン プロフィール

1940年、ブダペスト生まれ。リスト音楽院でヴァイオリンを学び、コダーイ・ゾルターンやヴェイネル・レオーらに師事。23歳でハンガリー国立歌劇場の第一コンサートマスターとなる。1965年から1970年にかけてリスト音楽院で教鞭をとる。1970年にはハンガリー放送交響楽団の、1971年から1981年ベルリン・ドイツ・オペラの第一コンサートマスターに就任し、ベルリンではベルリン芸術大学で教鞭をとる。 エルネ・シェベシュティーンは弦楽四重奏や弦楽トリオの活動も行い、ヨーロッパの主要なコンクールで入賞し、室内楽奏者としても世界的な名声を得る。 ベルリン弦楽合奏団(Deutsche Streichersolisten Berlin)や、フィルハーモニッシュ・シュトライヒ・ヴィルティオーゼ・ベルリンの芸術監督としても活動。カツァリスピアノ五重奏及びカメラータ・スロヴェニカの第一ヴァイオリン奏者、バイエルン放送交響楽団の第一コンサートマスター(1980~1991)を務めたほか、アウクスブルグの Leopold-Mozart-Konservatorium で教える。1990年から2005年にはミュンヘン音楽・演劇大学での教職に就く。2006年には Esterházy Piano Trioを結成し、ソリストの活動にとどまらず、室内楽の領域でも成功を収めた。

1. 自己紹介

私は第二次世界大戦中のヨーロッパ全体がとてもひどい状態にあった1940年にハンガリーの伯爵の子として生まれ、4才の時にヴァイオリンを始めました。私はかなり早く上達し、いわゆるWunderkind(天才児)の様な上達を見せたのです。しかし第二次世界大戦後、ソ連の侵略が始まり、社会主義のリアリズムは貴族の存続も天才児の存在も認めませんでした。私も例外に漏れず23才で大学を卒業しました。大学に通いながら学費にあてようと思い、国立ハンガリー・オペラのオーケストラで弾いていたのですが、大学を卒業すると、請われてそこのコンサートマスターに就任しました。 そしてそれと同時に音楽大学での教授活動を始めたのです。  その後、私を評価してくれたロリン・ マゼール氏の勧めでDeutsche Oper Berlinのコンサートマスター試験を受け、13~14人の中から選ばれ、ドイツに滞在することになります。1970年後半のことです。西ベルリンに行った私は、そこで大学の教授としても、演奏活動を行っていました。またその時から私は、ベルリン・フィルハーモニーのコンサートマスターの席が空くことを望んでいました。しかし、それはなかなかうまくいかず、1980年にバイエルン放送交響楽団の第一コンサートマスターをしていた有名なケッケルト氏の席が空いたので、その後任となりました。私は、これと並行してアウグスブルグの伝統のある大学 Leopold Mozart Konservatorium にて教授活動を行い、そして現在もなお続けています。  私はこれまで28年間もコンサートマスターとして、オーケストラでヴァイオリンを弾いてきました。その間オーケストラ、オペラのほとんど全作品に通じるに至りましたが、そろそろソロ活動と教育に専心し、若い人をこれまで以上に育てたいと思っていました。丁度この夏にウィーンのヘッツェル氏の後任としてミュンヘン音楽大学の教授に招かれました。  私はこのようにミュンヘンに落ち着くようになりましたので、ベルリンフィルのコンサートマスターになるのも辞退し、また西ドイツ国籍も取得し、ハンガリーから自由の身になりました。  西ベルリン時代に、私は Deutsche Streich Solisten Berlin を結成し、指揮者代わりのコンサートマスターだったのですが、(この時代のものにロッシーニの弦楽ソナタのCDがあります)私がミュンヘンに行くことになったので、共演が難しくなりました。しかしその後、この団体を新たにツェッペリッツ教授がフィルハーモニッシュ・シュトライヒ・ヴィルティオーゼ・ベルリンとして再編成しまして、私がコンサートマスターとして演奏しています。我々は、旅行公演は勿論、レコーディングもたびたび行っています。今年は日本でも演奏し、ヴェルディのクァルテットなどのCDを作りました。再来年にもう一度日本で演奏とレコーディングを予定しています。

2. 私の演奏活動について

ー影響を受けられたヴァイオリニストはいらっしゃいますか?
 私の音楽的な質やヴァイオリンの音色についての考え方は、レオニード・コーガンから多大な影響を受けています。残念ながらもう亡くなったのですが、レオニード・コーガンはいつの世代においても最高のヴァイオリニストだと思います。音色においても最高級の人だったのです。


ーどんな音色を持っていましたか。
 コーガンには、個人独特の音の特色というものがなく、どんな場合でも常に通用し得る音色なのです。ハイフェッツを好む人は、彼の音を聴くと「あ、ハイフェッツだな、とても味のある音だ」と言うでしょう。 しかし、またある人は、「ちょっとあますぎないかな」と言うんです。コーガンにおいてはそういうことがないんです。本当に彼の音はすべての 時代において、あらゆる人に通用するものなのです。


ーどのようにしてクァルテットに興味を持つようになったのですか。
 それはブダペスト時代に遡ります。ハンガリーで私が一人では出国ビザが得られなかった時です。ジャン・マルティノンが私をデュッセルドルフに招待してくれた時、ハンガリー政府は私の出国を許可してくれませんでした。そこで私は考えました。私一人だけだからいけないのであって、何人かが一緒の団体なら可能かもしれない。そしてそれはその通りだったのです。ハンガリー政府は、私が他の三人と一緒なら他の人々から離れて 一人だけ別行動をとり、亡命を考えたりしないと安心したのだと思います。そんなふうにして私はクァルテットの一員として旅券を手に入れることができたのです。こんな理由で始めたのはおかしいですね。


ークァルテットの4人は、それぞれ違った楽器を持っていますね。それ故に音色が全く違うものである場合もあると思うんです。それに弾き方だって各々の個性がありますから。こんな問題点をクァルテットにおいて、どのように解決してきましたか。
 これは本当に難しい問題です。第一に、本質的なレベルが各々違っているのを避けることができません。それから、もし4人が同一の調和を持った楽器を持って集まったとしたら、それはどうにか早くまとまるのですが、4人がそれぞれ異質の音色を持った楽器を持って集まったのでは、それは本当に複雑なのです。つまり、同レベルの技術、楽器そのものの音色というこの二つの点に私はとても注意しています。
 合奏の相手についていえば、私は現在まで、かなり長期にわたってプロとしてヴァイオリンを弾いてきましたが、これまでの演奏活動を通して私は、本当にたった一人の演奏家とだけ、一緒に音楽を調和できるチャンスを認めることができました。マルチン・オスターターク (元べルリン・オペラのソロチェリスト。現在はカールスルーエ音楽大学教授)がその音楽家です。私の考えでは、彼がドイツ最高のチェリストです。我々は政治的には時々、違った意見を持っていました。というのは、私は保守的で、彼は社会主義的だったからです。しかし、その問題は我々の音楽的な相互理解の関係を妨げることは全くありませんでした。我々はあたかも一つの弦を、一緒に弾いているような調和を生み出すことができました。理解していただけると思うんですが、 このように、より素晴らしい調和を目指せ ば目指すほど、一緒に弾く演奏家を見つけることが難しくなるのです。


ー弦楽トリオではどうですか。
 弦楽トリオの方が多分にソリスティックですので、私はどちらかというとトリオを好みます。


―それはなぜですか。
 トリオにおいては、3人がそれぞれ最初から本質的に違った音質の楽器を持っているのです。チェロはチェロでビオ ラはビオラで、ヴァイオリンはヴァイオリンで各々他の2つの楽器とは違う音を持っているでしょう。そして、それぞれの演奏家は皆、ソリストとして十分な技術 、音楽性を持っているのですから、クァルテットの場合は第二ヴァイオリンが最大の問題点です。


ークァルテットの第二ヴァイオリンは見つけるのが難しいらしいですね。それはなぜですか。
 第二ヴァイオリンと第一ヴァイオリンを比較して、第一ヴァイオリンの方が優れた技術と音楽性を必要とすると考えている人がいたら、それは間違いだと思います。私の考えですが、クァルテットの場合、第一と第二ヴァイオリンは一つのキャラクターであるべきなのです。チェロとビオラはすでに違ったキャラクターを持っていますが、第一、第二ヴァイオリンは音楽性、芸術性において一つのものであることを要求されます。第一が旋律を奏で、その後を追って第二が色々な回りの状況を考慮した上で、第一と全く同じ音、同リズムで弾かなければいけない。こう単純に考えただけでも、第二ヴァイオリンは第一ヴァイオリンと同一、またはより高度な音楽性を必要とするということが理解していただけると思います。  そんな訳で、そういう第二ヴァイオリンを探し出すのはとても大変なことなのです。しかし、多分私の考えているような第二ヴァイオリンとなりうる人は、他のクァルテットの第一ヴァイオリンとして、同じように第二ヴァイオリンを探すのに頭を悩ませていることでしょう。


ーそう考えますと、第二、第一といった名称は良くないですね。
 私もそう考えます。私だったら一つのヴァイオリン、そして他の別のヴァイオリンという言い方がいいと思う位です。


ーアメリカのオルフェウスについて聞いたことなのですが、彼らは音楽を作り上げる時に、全員が色々と議論を交しながら行うというんですが、ヴィルティオーゾ・ベルリンの場合はどうですか。
 ヴィルティオーゾの前身のドイチェ・シュトライヒ・ゾリステンは1970年代に編成されたのですが、第一ヴァイオリン3人、第二ヴァイオリン3人、 ビオラが2人、そしてチェロとバスという編成で、最初は6人全員がローテーションを組ん で、順番にパートを持つようにしていました。しかしそういったシステムは長く続かなかったのです。全員が音楽の調和を考え、よりよいものにしようとした時、コンサートマスターが必要不可欠になってきたのです。それからは全員、定まったパートに就き、他にどうにも変更の余地は考えられませんでした。  私はこの頃、妙に淋しく思うことがあるのです。私の考えですが、どんなオーケストラでも、全員をまとめる人物が一人必ず必要だと思うんです。そのところは、どのように弾かれるべきかとか、どのように構成されるべきか、またはそれは、音楽的に正しい弾き方かどうか、などということを全員に納得させることができる人が必要なのです。指揮者はもちろんそれができる人でなければなりません。しかしこの頃、そういう指揮者がなかなかいないように思うのです。そしてオーケストラは、どんどん批判的で不穏なものになってきているのです。そしてこういった指導的な立場というのは、コンサートマスターにも要求されるものだと思うのです。 全員を一つの音楽性のもとに統一させ、全員の尊敬を受けるに値するコンサートマスターは本当に少なくなってきているのではないでしょうか。 私はオーケストラにおいても、クァルテットにおいても、全員の調和が第一に大切だと思うのです。そのため、二人以上の人間が互いに主張し合うような、ある意味では民主主義的な方法は不可能なのです。コンサートマスターの言うことは 命令ではないし、互いに従属関係ではもちろんないのです。つまり彼が全員に何かを求めた時に、そして彼が何かを求められた時に、コンサートマスターは全員を納得させるだけの音楽的、人間的な力を持っていなければならないのです。そのような力を持ったコンサートマスターを持たないオーケストラにおいて、オルフェウスのような方法が有用なのでしょう。

3.日本の皆さまに向けたメッセージ

ー次に楽器のことについてお聞きしたいのですが、楽器を選ぶ時にどんなことに注意したらいいと思いますか。

 これは難しいですね。本物で状態が良いことは当然のこととして、ご存知のように人間は各々、各人の気質を持っていますね。それと同じように楽器を選ぶ時に、各々の音色というものを考えるのです。もしあなたが一つのヴァイオリンを選んだとすると、すぐにその楽器があなた自身の音色を持っている楽器かどうかが判るのです。もちろんイタリアンオールドともなると、音自体からして違ってきます。

 しかしクライスラーの話にもあるように、楽器は弾く人によって変わるものです。彼がどんな楽器を弾いていても、聴衆はきっと素晴らしいオールドヴァイオリン(イタリアン) を弾いているに相違ないと思うのです。ですから私は、オールドイタリアンの絶品のものは別格としても、楽器を選ぶ場合は、自分の持つ音色を大切にしてそれに合った楽器を選ぶようにすればいいのではないかと思います。日本で楽器を探すとすれば、楽器を判る人 でなければならないのはもちろんのこと、アメリカとヨーロッパにネットワークを持ち、英、独両国語ができる位の楽器店に頼るべきでしょう。


ー現在、教育活動を熱心にされていると聞きましたが、音楽教育についてあなたの特別な意見をお聞かせ下さい。

 そうですね、私は優れた教育者は、優れた医者のようなものだと思います。教育者はいつでも生徒たちを診断していなければならないということです。というのも人間は誰しも違った育ち方をしますから、教育者は各々の解剖学的な素質を見抜けなくてはなりません。我々の時代には、ヴァイオリンを弾くということは、解剖学的にちょっと不自然な所があると思われていました。 私はもっと自然でなければと思うのです。私にとっての最大 の課題は、生徒たちに弾くということはドイツ語や英語でSpielen、 Playというように、その言葉の示すように楽器を楽しむことだということを教えたいのです。Spielenです。楽しく遊ばなければいけないのです。緊張したり、疲れてしまったり、難しいからといって頭を悩ませたりするべきものではないのです。私の教育のモットーは、自然科学的、物理的な法則に反するような弾き方をしていては、よく弾けず、楽しく弾くということにならない、音楽は自然に楽しむものだということです。いつも自然にきちんとした姿勢で、背筋を伸ばして、ちゃんと呼吸をしなければなりません。


ー自然に弾くということですね。

 そうです。それが一番大切なことです。だいたいにおいて、楽派的にみても反自然科学的な弾き方はないように思います。私たちは、もし誰かが3秒でもヴァイオリンを弾いているのを見れば、もうその人がどの位の腕を持った人かを予想することができるのです。むしろ弾く必要はないかもしれません。ちょっと弦をさわっただけでも、それは判るのですよ。 弾く必要は全くありません。


ー最後に、先生には日本人のお弟子さんが何人かいらっしゃるそうですね。本誌を通して日本の若い音楽家に、これからヴァイオリンを弾いていく上でのアドバイスを願いたいのですが。

 私は昔、松本の鈴木先生を訪ねて、スズキ・メソードを体験したのですが、基本的な教育方法には同感しています。ただ音楽というものは集団で弾くのはとてもいいことなのですが、常に個性を大切に育てていかなければいけないと思うのです。そういう点であの方法がいいかという心配はありますね。自分の弾き方を生徒に押しつけるようなことは、教育者はしてはならないと思うのです。個性、才能を信じて、それをもっともっと伸ばしてくれるような優れた先生を選んで、その先生に自分の才能、個性をどんどん表現して下さい。あなたのヴァイオリンは誰にもまねのできない、素晴らしいものとなるはずです。

ー貴重なお時間をありがとうございました。