写真:1880年頃のジェノバ港町の様子今回はモダン・ジェノヴァ派の祖であり、ニースにて生涯を終えた製作者 ニコロ・ビアンキについてご紹介します。前回の記事で紹介した
パシュレルと同世代のメーカーで、奇しくもニースにて晩年を過ごした両者ですが、その人生は個性的で全く異なったものでした。
■ 生い立ち
写真:ビアンキ肖像画
ニコロ・ビアンキはリグーリア州サヴォナ県の都市、アルビソーラ・スペリオーレに生まれました。1841年以前のビアンキの初期経歴についてはあまり詳しい事はわかっておりません。1830年代後半頃からジェノヴァで職人として働き始め、
ロドヴィコ・ラステッリと仕事をともにしていた可能性も示唆されています。
当時のジェノヴァ市の記録によると、ラステッリは弦楽器修復士として職業登録されており、楽器製作だけでなく修理の仕事も手掛けていたようです。 こうした背景から、ビアンキもまた製作以外に修理技術を学んだのではないかと考えられます。 1844年にフランスのエクサン=プロバンスで楽器修復をした事を証明するラベルが存在しますが、彼がアルプス山脈を越え渡仏した明確な理由は謎に包まれたままです。おそらく当時のイタリアの政治的背景が関係しているのではないかと想像されます。
■ 自治権を失ったジェノヴァ
写真:ナポレオン・ボナパルト1797年、ナポレオンの率いるフランス軍侵攻により、傀儡(かいらい)国家であるリグーリア共和国が設立され、ジェノヴァはその首都になりました。1805年にはフランスへ併合されましたが、ナポレオン失脚後のウィーン会議では、かつてナポレオンが立ち上げた傀儡共和国であることを理由に国土回復させてもらえず、議定書によりサルデーニャ王国へ編入され、ジェノヴァは再び自治権を失いました。
サルデーニャ王国はトリノを首都としたピエモンテ州の国家であり、リグーリア州のジェノヴァにとっては異国の支配下に置かれるに等しい状況だったと言えます。 自治権が無いゆえに、経済的な発展も望めない、こうした境遇からの脱出を求めて、ビアンキは大国フランスへと渡ったと考えることもできるでしょう。
■ 新天地での成功と苦悩
写真:ビアンキの顧客であったA.バッツィーニとC.シヴォリビアンキは、エクサン=プロバンス、モンペリエ、ボルドー、アルル、ナントなどフランス各都市を巡った後、1846年にパリで工房を開きました。 彼は才能豊かなレプリカ製作者であり、グァルネリやマッジーニ・モデルを得意としていましたが、この時期は専ら楽器修復に取り組むことが多かったようです。
ビアンキの元には、ストラディヴァリやグァルネリ、アマティなど、イタリア名器の修復・調整の依頼が各地から寄せられましたが、当時一般的だった郵便による配達を彼は許さず、屋根付きの馬車を用いて丁重に運ぶよう徹底していました。 彼はフランス滞在中、全てにおいて〝イタリア至上主義〝とも言うべき固執した価値観を持っており、イタリア人である自分こそが真のヴァイオリン有識者だと自負しており、周囲のフランス人職人達と反目し合う事も少なくありませんでした。
一方で、彼が顧客にむけた書簡には、自分がいかに優れており、どんな著名演奏家がクライアントにいるか事細かに綴られております。非常にプライドが高い反面、常に競争相手に怯える臆病な性格であった事が伺えます。
■ 後世に与えた影響
神経質で複雑な気質をもったビアンキでしたが、彼の工房には19世紀後半における重要なモダン・イタリアンメーカー達が出入りしていたことは興味深い事実です。
1862年にはブレシア出身でフィレンツェで活躍したジュゼッペ・スカランペラ(
ステファノ・スカランペラの兄)がパリの工房に弟子入りしました。 その後、ビアンキは1869年に一度ジェノバに帰郷したのち、1872年に終の住処となるニースへと移り、再び工房を開きます。ここではモダン・ジェノヴァ派の
エウジェニオ・プラーガ、そしてフランス人のフランソワ・ボヴィスらが働きました。
彼らは最終的にビアンキの工房や遺産を引き継ぎました。 そしてビアンキの最晩年にあたる1880年頃には、ミラノからアントニアッツィ一族がニースへと移住しており、当時両者の間に何らかの関わりがあったのではないかと現在では考えられています。
■ 作品の特徴
写真:左/チェロ 1870年製 右・ヴァイオリン 1840年製最初期の作品は1840年以前にジェノヴァで製作されたものだと考えられています。この時期は
ロドヴィコ・ラステッリの作品との確かな共通性を備えており、両者の関連性を示しております。
その一方で、例えば1870年に製作されたチェロなど、フランスに移住してからは作品スタイルへの変化が感じられます。表向きは反目していたフランスの製作者達からも、良い影響は取り入れ、より成熟した作品を生みだしました。
■ 市場における評価
ビアンキは製作者、修復者、そして教育者としてのマルチな才能を持った人物であり、19世紀におけるジェノヴァ派ヴァイオリン製作の基礎を築いた重要なメーカーとして評価されています。現存する楽器はさほど多くはありませんが、それらはすべて、ビアンキが多様性に富んだ一流の製作者である事を示しております。
イタリア人で渡仏したビアンキと、フランス人で渡伊した
パシュレルとは、同時代に生きた人物ですが、両者の思想的な差異を生んだ背景には、イタリア統一前の混沌とした国家情勢が大きく影響していたことを感じます。
文:窪田陽平
参考文献:Liuteria Italiana 1860-1960 Ⅲ_,ERIC BLOT and ALBERTO GIORDANO,1997, 17-24page and 66~75page