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連載『心に響く、レジェンドからのメッセージ』

1984年から1993年まで、文京楽器が発行していた季刊誌Pygmalius(ピグマリウス)より、インタヴュー記事を復刻掲載します。当時、Pygmalius誌では古今東西のクラシック界の名演奏家に独占インタヴューを行っておりました。
レジェンドたちの時代を超えた普遍的な理念や音楽に対する思いなど、心に響くメッセージをどうぞお楽しみください。

第19回 豊田耕児 / Koji Toyoda

引用元:季刊誌『Pygmalius』第28号 1990年1月1日発行
■豊田耕児 プロフィール

1933年(昭和8年)浜松に生まれる。幼少より鈴木鎮一氏に師事。1943年10歳で第12回毎日音楽コンクールに入賞し注目された。1952年に渡欧しパリ音楽院で学び、翌53年卒業、1956年にロンドンでハリエット・コーヘン音楽賞を受け、1957年にロン=ティボー、1958年ジュネーブ、1959年エリザベートの各国際コンクールに入賞した。その間にジョルジュ・エネスコ氏やアルトゥール・グリュミオー氏の教えを受けている。
1962年よりベルリン放送交響楽団の第一コンサートマスターに就任し、1963年にはベルリン三重奏団も組織している。ベルリン市からは「カンマ―・ヴィルトゥオーゾ」の称号を受けている。ベルリン芸術大学教授として後進の育成にも尽力した。

1.  精神から生まれてきた芸術

―バイオリンをはじめたのはいつ頃からですか?


 2歳半位からだと思うんですが、3歳の時、ユーモレスクを鈴木鎮一先生の発表会でとび入りで弾いたんです。父親も音楽狂でしてね。1/4のバイオリンを自分で糸ノコなんかを使って1/8につくりかえてくれました。それが世界で初めての1/8かもしれませんね。今も残っていますがまことにぎこちない不格好な楽器です。


 鈴木先生がドイツから帰っていらして、名古屋で教室を開かれたんですね。父も自分でバイオリンを習いたいということもあって、名古屋へ引っ越したんです。その後、先生が東京へ行きましたんで、私も東京へ行くことになったんですけど、当時音楽で生計を立てるのはむずかしくて、ハーモニカの組立てなんかをやって生活してたんですね。戦争の末期まで東京で先生に習ってました。その後、先生は木曾福島へ引っ込んでしまったんですよ。八歳位の頃です。私は中学校は工業学校へいって建築科へいって建築家になろうとしていましたね。その後、木曾福島へ行ってからまた習い始めたんです。 


―鈴木先生からはどのようなことを学ばれましたか?


 先生は明治の人らしく、精神的なモラルの強い人でした。人間的な強さとか、人間とはこうするべきだということを学びました。厳しい先生でした。その厳しさを越えて溶み出すような暖かさ深さを感じました。それが私にとっての遺産です。音楽家も人間ですから、人間の生活を考えない限り音楽をやったって意味がない。今でもそう思っています。

 音楽そのものは人間がそういうものを要求してできたものですからね。特にヨーロッパの18~19世紀の世界は人間的な世界がリードしてるわけですから、それを忘れたら音楽も何もないに等しい。

2.  音楽との親密な時代

ーどのように音楽を学ばれたのですか。


  当時は生活も苦しいし、文化的にせちがらい世の中でした。レコードなども少なく、その上にそれを持っている人なんかごくごく少なかったですけれど、そういう人のところへ行って、貧るごとく聴いたものでした。東京でも中野に一軒レコードのあるコーヒー店があって、そこでコーヒー一杯で聴かせてもらったりもしました。

 そういうものでもあったからよかったですけど、音楽に接する機会は少なかっただけに、逆にこちらがハングリーでね、欲求がものすごく強かった。それだけに吸収するものは多かったですね。厳しいことは厳しい社会でした。けれど、今よりももっと音楽と親密な関係があったような気がします。

クライスラー、シゲティ、カザルス…カザルスをいちばん聴きましたね。バイオリニストから受けた影響よりもカザルスからの方が大きかったですね。初めてバッハの組曲を聴いて、バッハが私のいちばんの人生の目標となったと思います。精神から生まれてきた芸術ということを考えたら、いちばん密接に結びついていた時代だと思いますね。

 

 現代はテンポが非常に速いですね。昔のように、一つのことをじっくりとやってゆくということがないですよね。種類も少なかったし。個性も最もはっきりしていましたですね。今はどちらかというと、その曲にそった弾き方をしようという傾向がありますけど。色々な種類のものを把握する機会は増えましたけれど、個性を追求するということがなくなりましたね。どちらの方がいいかはまた別の問題でしょうけれど。昔の人には時間というものがあって、自然な形でものごとを消化していって、それが消化された頃には自ずから、それがその人の個性となっていたんですね。今は自分よりも他人の要求に従おうとするんですね。


 日本は、レコードの世界の影響を強く感じます。ヨーロッパの人たちは自分の感じたように弾こうとしますね。極端に言うと、先生の言うことを聞かないくらいでね。レコードもいい悪いで選んで聴きますしね。自分のテンペラメントにあったものを選びつつ成長していくんですね。その辺は日本人と違うと思います。そのために、もっと楽に習得できるものを拒否しているために、伸びるものも伸びないということもおきてきます。日本人はその点、従順ですからどんどん伸びてゆきます。でもある一点にくると、すなわち自立する段になるとヨーロッパ人は強いですね。国民性の違いですかね。

3. 巨人エネスコ

ーヨーロッパへ行かれたのは。


 19歳の時でした。初めはフランスの給費留学生に選ばれて、パリの音楽院で学びました。その当時、巨匠たちが生きている時代でした。シゲティ、フルトヴェングラー、トスカニーニ、カザルスなどです。そんな影響が強い時代でした。

 ただ私が向こうへ行った時、日本はまだ欧米をまね、欧米に追いつきさえすればという時代ですし、日本人とは体質の違う文化に同化しようとしても同化しきれないギャップを感じて、スランプに落ち込んで何もできない時期もありました。そんな中で、自分を取り巻いてきた過去の歴史と、自分をもう一度見直さなければ、それにヨーロッパの音楽はどのようにして築かれてきたのかということを考え、色々納得できることが見えてきたのです。私は幸いなことにエネスコという人に出会ったのです。非常にスケールの大きな人で、この人に会ったことで再出発することができたのだと思います。

 エネスコは、伝統的なというか古い体質を抱えながらも、新しいものに目を向けているという、そういう音楽家でした。古いものを消化しながら新しい息吹きを汲み取っていくのが音楽なのだと。自分もやはり借り物ではない自分を求めてやり直さなければならないと。

 

 エネスコは、バイオリンに限らず万能といった方がいいかもしれません。ピアノでも指揮でも作曲にしても驚くべき才能を持った人でした。記憶力が優れていて、一度聴いたら忘れない。自分でも言ってましたけどね。だれかが曲を弾くでしょ、初めての曲をね、それを一回聴いていて弾き返してしまうんですよ。シンフォニーでもなんでもそうなんですよ。自分が感じるものだけを吸収していくシステムでしょうね。バッハのカンタータなんかも200曲以上あるでしょう、その内の150曲位しか勉強できなかったというんですけど、でもその150曲すべて頭の中に入ってるような人なんです。ある曲の部分を取り出していつでも弾いてみせてくれるわけですよ。バッハのバイオリン曲でも、それに和音づけをして弾いてくれるんですけど、楽譜に出ている音譜以上にちょうど氷山の一角のような楽譜の下に隠れている部分を見させてくれるんですね。その前では、バイオリンの上手い下手なんてどうでもよくなってね、バカらしくなりましたよ。そうした土台なくして音楽は成り立ち得ないとね、そう思いましたよ。まあ200~300年の期間を一人の人間ではどうしようもないですけどね。 でも気がついただけで も良かったと思いましたね。生活のバックグラウンドを理解しないと音楽は分からないと思いますね。

4. 「借り物でない音楽を」

―日本の若い方たちに何かお願いします。

 日本人の感覚で、我々の中に音楽ができてくる。それが作曲にしろ演奏にしろ、そういう方向に向いていったら素晴らしいことだと思います。日本人の演奏を現在の時点までで聴いてみると、どこかやはり自分たちのものでない、借り物という感じがします。音一つにしても、インターナショナルの音があって、もちろんそれを目指しているんだけれど、日本人の感性にうったえられるような音があると思うのですが、それがまだ探されていない。

標準が外にあるというか。ヨーロッパにある。家のサイズにしても、東京に帰ってくる度に思うんだけれど、豊かになったといっても、今だにこんな家が立っているというようなひどい家がありますけど、でも日本人にはそれだけで済まされるという感覚がある。自分たちの生活に合ったものをどういうふうにつくるかという工夫がなされていない。

 ヨーロッパ、アメリカの文化に圧倒されながら日本はやってきたものだから、やたらに大きなもの、やたらに複雑なものを考えてきたのだけれど、でも、いらない空間というものをバランスをとって形作っていく時に、小さいものは小さいものとして価値をもっていく。音に関してもやたらに大きな音が求められたりしますけど、そればかり追求していたら結局は体力にはかなわないですよ。自分たちの精神生活にあった音を求めた時に、音色、音量という音の意味が出てくるものだと思います。

ー最後に楽器についてお話をいただけますか?


 今はたくさんのお金を積まないとね、そんな状況になってますからね。パリでエティエンヌ・バテローと親しくなって、色々世話になって様々な楽器を見せてもらいました。コンクールや試験の時に楽器を貸してくれたり、色々使宜を計ってもらいました。

 グリュミオーに習ったんですけど、彼も楽器きちがいで、色々勉強させてもらいました。今は、1732年のデルジェスを持っています。その前にバレストリエリを持っていたんですが、もう少し力のある楽器が欲しいと思ってました。アムステルダムのミュラーから電話があって見にこないかと話があったんです。ピエトロ・ガルネリだったんですが。ミュラーのところについたちょうどその時に、ニューヨークから電話が入って、そのガルネリを見たいという電話だったんです。ですが、ミュラーさんは、今一人欲しがっているんで待ってくれと、一旦電話を切ったのですが、今度はこちらがその楽器を買うかどうか。4時間以内で決めなければならなくなったんです。コンセルトヘボウのホールで弾き比べてみたりしてね。でも高い楽器でね。全財産はたいて買うわけだけれど、決心した時には、生きた心地もしなかったですよ。その頃まだ貧乏でしたからね。その楽器は今だに持っています。デルジェスはフランス人のジャンヌ・ゴティエ、ストラヴィンスキーなんかが可愛がっていた人ですけど、その方が年だから譲らなければならないということで手に入れたんです。高音の素晴らしい楽器ですね。デルジェスにしては綿密な細工です。


ーありがとうございました。