弦楽器メルマガ
BG Newsletters 配信中!
BG Newsletters に登録する登録する

日曜・月曜定休
Closed on Sundays & Mondays

10:30~18:30

112-0002 東京都文京区小石川2-2-13 1F
1F 2-2-13 Koishikawa, Bunkyo-ku,
Tokyo 112-0002 JAPAN

後楽園駅
丸の内線【4b出口】 南北線【8番出口】
KORAKUEN Station (M22, N11)
春日駅 三田線・大江戸線【6番出口】
KASUGA Station (E07)

文京楽器の弦楽器フェア2020 フレンチボウ・クロニクル 〜フレンチボウとアンティーク楽器の展示会

文京楽器の弦楽器フェア2020
2020年10月10日 土曜日 - 11月10日 火曜日
@ 文京楽器 店舗 & オンラインストア


弓の世界最高峰、フレンチボウ。これらの弓は、絶対王政末期の激動の時代にはじまり、パリが最も栄えたとされるベルエポックの時代にかけて作られたものです。同時期に製作されたフランスのアンティーク楽器とともに、クロノロジカル(=年代順)に展示します。

目次

ご挨拶 展示会開催によせて

現在ヴァイオリンの世界でフレンチボウといえば、フレンチ・ワインと同じように、最高級品の代名詞です。フレンチボウの名声は、弓のストラディヴァリ、F.X.トゥルトに始まったと言って良いでしょう。F.X.トゥルトは、18世期末にヴェルサイユで戦列なデビューを飾った、イタリア出身のヴィルトゥオーゾ、G.B.ヴィオッティと協力して、豊かな音量と多彩な表現と可能にするモダンボウ(近代弓)を発明しました。かつて時計職人だったF.X.トゥルトは、金属パーツや美的センスを弓づくりに持ち込み、工芸品としての美しさを併せ持つ弓を作り出しました。こうして楽器の付属品から脱却したモダンボウは、奏者の圧倒的な支持を受け、またたく間に普及します。そのため、F.X.トゥルト以降の弓製作者は、基本的にバロックボウではなく、モダンボウを製作しました。

歴史を紐解くと、フランス人が試行錯誤しながら、モダンボウの名弓を世に送り出した時代は、決して順風満帆ではありません。F.X.トゥルトが、弓の製作を開始したのは、ちょうど絶対王政最後のルイ16世が即位した頃です。1789年にフランス革命が起きますが、ヴェルサイユで活躍し上流階級とも親交の深かった、F.X.トゥルトの兄レオナールは、革命が熾烈を極めると、危険を感じて身を隠しています。同じ時期、マリーアントワネットに仕えたヴィオッティもロンドンへ逃げています。

その後も近代化・民主化の試行錯誤が続き、社会のあり方や政治体制が目まぐるしく変わっていきます。19世紀後半になると、フランスでも産業革命が進み、パリが最も華やかだったベル・エポック(良き時代)を迎えますが、それも束の間、二度の世界大戦が起き、フランス人の生活は歴史に翻弄されます。しかし、フランスの名工達は、どのような状況であっても、幾多の困難を乗り越えて、後に名器・名弓と呼ばれる作品を生み出したのでした。

現在、私たちはコロナ禍という、未曾有の危機を迎えています。ともすると不安がよぎることもしばしばです。しかしながら、困難は乗り越えることに意義があると信じて、未来を切り拓いていかなければなりません。どのような環境にもおいても、偉大な作品を残そうとしたフランス弦楽器職人の「情熱とたくましさ」は、きっと私たちを勇気づけてくれるでしょう。

令和2年10月吉日
文京楽器・代表取締役社長
堀 酉基(ほり ゆうき)

フレンチボウ・クロニクル 展示楽器リスト

Violin & Cello

1800-50
Nicolas VUILLAUME
1850-1900
1900-1945
1945-

Bow

F.X.Tourte
1800-50
1850-1900
1900-1945

1945-

フレンチボウ・クロニクル
〜フランス近代史と弓製作家


フランス近代史は非常に複雑で難解です。イギリス革命やアメリカ独立などの市民革命に影響を受け、急進的な動きと保守的な体制が、入り乱れながら近代国家をかたち作っていきます。これらの試行錯誤は、治安を不安定に陥れ、テロや戦争によって、多くの犠牲を払いました。しかし、フランスの近代化は、世界の国々の近代化と民主化に大きな影響を与えたと言えるでしょう。日本も例外ではありません。

今回は、主にパリで活躍したフレンチ・ボウの名工を、政治体制(レジーム)で時代順に並べました。政治体制が目まぐるしく変わり複雑なところは、分かりやすさを優先し、便宜上大きく区分しました。私どもは歴史の専門家ではありませんので、詳しい事実関係は専門書で確認していただければと思います。

Part I:18世紀末

①最後の絶対王政 1774-1789

1774年に即位したルイ16世の治世。王は即位後すぐ、芸術振興の方針を打ち出します。
高級時計の代名詞「ブレゲ」が創業したのもその年です。F.X.トゥルトが、兄のレオナールに加わって弓製作を始めたのも、この頃だと言われています。
当時流行していたクレマー・スタイルの弓(後期バロック・ボウ)を製作していた兄のレオナールは、絶対王政の本拠地ヴェルサイユに出入りし、顧客は上流階級でした。
イタリア出身のヴィルトゥオーゾ、G.B.ヴィオッティと出会ったのもこの時期です。

②フランス革命期 1789-1799

フランス革命期は、まさに激動の時代です。イギリス市民革命やアメリカ独立戦争、それに伴う啓蒙思想の発展等、様々な影響を受けて、革命の機運は高まります。一旦はルイ16世のもと憲法ができて立憲君主制度が樹立しますが、その後すぐに君主制は動揺、共和政、ジャコバン派の独裁、総裁政府と目まぐるしく政治体制が変化しました。1793 年と1794年はロベスピエールによって恐怖政治が行われました。上流階級と繋がりの持っていたレオナール・トゥルトは身を隠す必要がありました。
カテゴリー①ヴェルサイユで活躍し、上流階級と交流したメーカー

コラム ニコラ・リュポ

弓メーカーではありませんが、フランスのヴァイオリン製作史を語る上で欠かすことのできない、フランスのストラディヴァリ、ニコラ・リュポについて触れておきます。リュポが、オルレアンからパリに工房を構えたのは、1796年のことです。

ここで「何故リュポは、治安の悪いパリにわざわざ移ってきたのか」という疑問が残ります。リュポは、友人のフランソワ・ルイ・ピクに見い出されて、革命後の1792年頃からオルレアンとパリを行き来していたようです。この時期は、上流階級にとっては、ギロチン台に送られるかもしれない、最も危険な時代でした。

1791年、ピクはペイアンという女性と結婚しています。彼女の父は肉屋でしたが、革命後に財をなしていました。というのも、新政府は、危険を感じパリから逃げた上流階級の不動産を接収し、安価で払い下げていました。それをペイアンの父は購入することで、財をなしたのです。

そうした関係から、ピクは新興ブルジョアジーとの商売を広げていきます。やがて、需要を自分一人では賄えなくなっていたピクは、優れたヴァイオリン職人を必要としました。それが、オルレアン出身のヴァイオリニストから紹介されたリュポだったのです。

また、革命によって政治体制は変わっても、ヴィオッティが1709年製のストラディヴァリウスで奏でた音が、音楽家にとっての理想であることは変わりませんでした。そのため、ストラディヴァリウスと同じような新作楽器が必要となり、ピクやリュポはストラディヴァリウスに忠実に製作しました。その後のフランスのヴァイオリン・メーカーは、リュポの路線を引継ぎ、ストラディヴァリウスモデルを基準に製作するようになりました。

Part Ⅱ:19世紀初頭

③ナポレオンの時代 1799-1814

1799年、ナポレオン・ボナパルトはブリュメールのクーデターによって、執政政府を樹立して独裁権を掌握します。そして1804年には、ナポレオン1世として皇帝に即位しました。その後、ナポレオンはアウステルリッツの戦い・トラファルガーの海戦・ロシア遠征など、欧州諸国にナポレオン戦争と呼ばれる数々の戦争を仕掛けました。しかし、ライプツィヒの戦いに敗れ、ナポレオンは1814年に退位することになります。

④王政復古 1814-1830

1814年、ナポレオン戦争の戦後処理のためにウィーン会議が開かれます。ウィーン会議は、フランス革命前の正統主義を原則にしていたため、フランスにもブルボン家が王として復位することになりました。




1795年に設立されたパリ音楽院(コンセルヴァトワール)が、19世紀ヴァイオリン演奏の拠点となりました。1803年、ヴィオッティの弟子であった ピエール・バイヨ、ロドルフ・クロイツェル(クレゼール)、ピエール・ロード(ローデ)が共著で「バイオリン奏法<Methode de violon>」を出版します。そして、パリ音楽院で採用されることで、ヴィオッティ奏法が新たなヴァイオリン奏法の標準となりました。

ヴィオッティの3人の弟子の活躍はめざましいものでした。3人はパリ音楽院の教授を務め、後進を指導しました。さらに、クロイツェルはウィーンでベートーヴェンに出会い、その実力を認められ、ヴァイオリンソナタ<クロイツェル>を献上されていることは皆さんご存知でしょう。ロードは、ナポレオンの宮廷ヴァイオリニストとしてヨーロッパ各地で演奏しました。

彼らの活躍もあって、ヴィオッティ奏法と共に、F.X.トゥルトのスタイルの弓=モダンボウがヨーロッパ各地に広まっていきます。そのため、19世紀初頭の弓製作家は、F.X.トゥルトのスタイルに大きな影響を受けて、製作しています。
カテゴリー②:トゥルト・スタイルで製作したメーカー

Part Ⅲ:19世紀中頃

⑤7月王政 1830-1848

1824年にシャルル10世が即位して以来、反動政治を進めて1830年7月に強圧的に解散したため、パリで革命が起こります。自由主義者に押されたオルレアン家のルイ・フィリップがフランス王になりました。




フランスのヴァイオリン製作史上、最も有名なのが、ジャン・バティスト・ヴィヨーム(1798-1875)です。1818年、ヴィヨームは、ミルクールから上京してパリで修行します。そして、早くも1826年には、自分の工房を設立しました。ヴィヨーム自身は弓を作りませんでしたが、企業精神に富んでいた彼は、当時発展を見せていたモダンボウの製作に大きな興味を持ち、弓を製作する工房を立ち上げます。その後、このヴィヨーム工房は約50年にわたり、多くの優れた弓製作家を輩出します。まさに、ヴィヨーム工房は、フレンチ・ボウの研究・開発の中心地であり、その進化と品質の向上に大きく貢献しました。
カテゴリー③:ヴィヨーム工房(前期)で活躍したメーカー
※トルテの後期スタイルをベースに、ペカット・モデルを生み出しました

Jean Pierre Marie Persoit ジャン・ピエール・ペルソワ(1783?-1854)
Dominique Peccatte ドミニク・ペカット(1810-1874)
Claude Joseph Fonclause クロード・ジョセフ・フォンクローズ(1799-1840)
Pierre Simon ピエール・シモン(1808-1881)
Jean Adam ジャン・グランド・アダム(1823-1869)
François Peccatte フランソワ・ぺカット(1821-1855)
Joseph Henry ジョセフ・アンリ(1823-1870)

Part Ⅳ:ベルエポック(19世紀後半〜第一次世界大戦前まで)

⑥ルイ・ナポレオンの時代(第二共和政と第二帝政) 1848-70

少数の大資本家を優遇した7月王政は、選挙法の改正を要求した中小ブルジョアジーと労働者の動きを押さえたことで、1848年の2月に革命が起こり、第二共和政が樹立します。その後、新しい憲法下で選挙が行われるとナポレオンの甥ルイ・ナポレオンが大統領に当選します。ルイ・ナポレオンは、1851年のクーデターによって独裁体制を確立、翌1852年の国民投票で皇帝となり、ナポレオン3世と称しました。ナポレオン3世は治世の後半になると、対外戦争に打って出ることで、国民の指示を得ようとます。しかし、普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)で破れ、第二帝政は崩壊しました。

この時期は、ジョルジュ・オスマンがパリ市の改造計画を推進したり(現在のパリの街並みは、主にこの時期に形成されました。)、鉄道網などのインフラが整備されます。産業革命が押し進められて、経済的にも発展しました。

⑦第三共和政成立から、第一次大戦の前まで 1870-1913

1871年、普仏戦争の講和に反対した一部市民が蜂起して、世界初の労働者政権のパリコミューンを成立させます。わずか、2ヶ月で鎮圧されますが、激しい市街戦によってパリの街はで荒廃しました。

1875年、新しい憲法によって正式に第三共和政が発足しました。第二帝政期のインフラ整備が功を奏し、工業化は順調に進展します。第二帝政と第一次世界大戦までの第三共和政は、工業化が進み、フランスはパリを中心に経済的にとても豊かになりました。




ベル・エポックと呼ばれたこの時代は、パリ・コミューンの蜂起などで一時的に荒廃した時期もありましたが、比較的治安も良く経済的にも豊かでした。フランスの急激な産業発展を象徴するように、パリ万国博覧会が開かれるようになりました。19世紀だけでも、1855年、1867年、1878年、1889年、1900年と5回のEXPOが開かれています。

弓製作家も、EXPOに参加して技術を競いました。例えば、この時期を代表する弓製作家のひとり、フランソワ・ニコラ・ヴォワランは、1878年のEXPOに素晴らしい弓を出展しています。ちなみに、1867年のEXPOには、日本もはじめて出展しています。(この年は、大政奉還の年にあたり、徳川幕府、薩摩藩、佐賀藩で出展しています。)

フランソワ・ニコラ・ヴォワランは、1855年にパリに出て、いとこのヴィヨーム工房で弓を製作します。その後1870年に独立すると、独自のスタイルを編み出していきます。当時の楽曲は、ますます高度で複雑になっており、奏者は演奏性の高い弓を欲するようになっていました。そこでヴォワランは、前の時代に流行したペカット・スタイルとは異なる、ヘッドが小さく、スティックに反りがしっかりと入った、演奏性に優れた弓を開発しました。このスタイルは奏者の大きな支持を受け、多くのメーカーがヴォワランのスタイルに続き、独自に発展させていきました。ヴォワランは、こうした文脈において、モダンボウ中興の祖と言えるでしょう。
カテゴリー④:ヴィヨーム工房(後期)で活躍したメーカー

François Nicolas Voirin フランソワ・二コラ・ヴォアラン(1833-1885)
Jean Joseph Martin ジャン・ジョセフ・マルタン(1837-1910)
Charles Peccatte シャルル・ぺカット(1850-1918)
・Prosper Colas プロスパー・コラス(1842?-1919)
Charles Claude Husson クロード・シャルル・ウソン(1846-1915)
カテゴリー⑤:ヴォアラン・スタイルを発展させたメーカー

コラム パリ・コミューン蜂起とヴァイオリン・メーカー

私どもの友人で、ベルギー・ブリュッセルで活躍する弓製作家でエキスパートのピエール・ギヨーム(Pierre Guillaume)氏。最近のギヨームさんとのやりとりのなかで、コロナ禍によって自粛生活を送っている私たちにとって、とても興味深いエピソードを紹介してくれました。

「現在の困難な時期を過ごしながら、私は1870年と1871年に、ジョルジュ・シャノ(Georges Chanot)とジャン・バティスト・ヴィヨーム(Jean Baptiste Vuilluame)によって、それぞれ書かれた教訓的な手紙のことを思い起こしています…

これらの手紙は、普仏戦争後の「パリ・コミューン」の蜂起によって、混迷を極めた社会情勢で書かれたものです。パリにあるすべての劇場やオーケストラ、そしてヴァイオリン・ショップが、ほぼ一年間閉店しなければなりませんでした。 1870年7月から1871年の5月までのことです。パリの人々は、ほとんど田舎や郊外に疎開していました。

ほとんどのバイオリンづくりは農業に従事することになりました。ジョルジュ・シャノは、手紙のなかで、じゃがいもを植えて野菜畑をはじめることになったと述べています。

一方、そうした争乱の時期に、たった一人だけ、パリに残っていたヴァイオリンづくりがいました。それは、フレンチ・ヴァイオリンの巨匠ジャン・バティスト・ヴィヨームだったのです!

ヴィヨームは、この時72歳。 手紙のなかで、食べ物がほとんどなく、冬の間は暖を取ることも難しいとのべています。そのような逆境にもかかわらず、ヴィヨームは、ヴァイオリンを無事に保管し手入れを続けるために、パリにひとり残る決断をしたのです。それだけでなく、この間にヴァイオリンの保管場所を2回移動しています。」

逆境において、ひとの本質は明らかになるといいます。環境に柔軟に対応して前向きに働いたシャノ、状況には左右されず自分の信念を貫いたヴィヨーム。このエピソードから、素晴らしい仕事を後世に残した二人の人柄が伺えます。

PartⅤ:大戦期(第一次世界大戦、戦間期、第二次世界大戦)1914-1945

1914年、第一次世界大戦が勃発するとフランスは連合国としてドイツと交戦します。戦場となったフランスの国土は荒廃しました。戦間期も、世界恐慌が起きて、経済は混乱します。1939年には、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まります。フランスはイギリスと協調してドイツに宣戦布告しますが、1940年にドイツはフランスに侵攻、北部はドイツに占領されることになりました。1940年には、フィリップ・ペタンのヴィシー政権ができますが、事実上ドイツの傀儡政権でした。一方、軍人のシャルル・ド・ゴールは、ロンドンへ亡命して「自由フランス」を組織します。1944年ノルマンディー上陸作戦によってフランス本土に連合国軍が上陸、パリが解放されます。傀儡のヴィシー政権は倒れ、シャルル・ド・ゴールを擁する臨時政府がパリに帰還します。1945年のドイツ降伏によって、ようやくフランス全土は再びフランス政府の手に戻りました。

この時期はとにかく混乱した時期です。二回の大戦では、フランスのヴァイオリン・メーカーやボウ・メーカーも徴兵され、中には命を落とすものがいました。戦間期は、世界恐慌も起きて、国内経済が不調でした。この時期の最も優れた弓製作家、ユージン・サルトリーでさえ、新大陸アメリカやベルギー王室にマーケットを求めなければなりませんでした。
カテゴリー⑥:サルトリーとこの時期に活躍したメーカー

  • Eugene Nicolas Sartory ユージン・二コラ・サルトリ(1871-1946)
  • Jules Fetique ジュール・フェティーク(1875-1951)
  • Louis Gillet ルイ・ジレ(1934-1946)
  • ・Andre Chardon アンドレシャルドン(1897-1963)
  • Andre Richaume アンドレ・ジョルジュ・リショーム(1905-1966)

Part Ⅵ:大戦後(第四共和政、第五共和政)1946-

1946年に新憲法が成立すると、1947年から第四共和政に移行します。多党分立であったため、常に政情は不安定でした。また、戦禍によって経済は疲弊しており、アメリカのマーシャル・プランによる支援を受ける必要がありました。1959年には、シャルル・ド・ゴールを大統領に選出し、第五共和政へと移行します。第五共和政では政局の安定を図るため、大統領に強い行政権限を認めています。また、1961年に成立したヨーロッパ共同体では、フランスは中心的役割を果たし、1973年の第一次オイルショックまで高い経済成長率を維持しました。




戦後しばらくすると、完成度が頂点に達したヴォワラン=ラミー=サルトリーのスタイルからの脱却する動きが見られ、ペカット・モデルにその源泉を求めます。

20世記の最も優れた弓製作者のひとり、エミール・オーギュスト・ウーシャは、第二次世界大戦後の疲弊した経済状況もあり、新天地を求めて1946年にアメリカへ移住します。しかし、経済状況が上向いてきた、1960年にはパリに戻っています。

エミール・オーグスト・ウーシャの息子、ベルナール・ウーシャは、戦後のフランスの落ち込んだ経済に見切りをつけ、スイスで働いていました。フレンチボウの伝統を守るために、ミルクールで弓製作学校が設立されると、1971年教授に招聘されます。ベルナール・ウーシャは、ここで精力的に若者を指導し、現代を代表する弓製作家のステファン・トマショーやエリック・グランシャンらを育てました。現代の個人弓製作家の系譜は、この弓製作学校からはじまったと言えるでしょう。

一方、弦楽器製作の家系に生まれた、ベルナール・ミランは、フランスを代表する楽器鑑定家、エティエンヌ・ヴァテロと共に、フレンチボウの体系をまとめ、蒐集本<Les Archets Français>を1977年に刊行します。さらに、ミラン氏は研究を続け、同じく弓鑑定家のラファン氏と共著で、蒐集本<L’archet>を2000年に出版します。これによって、フレンチボウの美術骨董品としての鑑定の基礎が確立しました。
カテゴリー⑦:戦後に活躍したメーカー

  • Emile Auguste Ouchard エミーユ・オーグスト・ウーシャ(1900-1969)
  • Bernard Ouchard ベルナルド・ウーシャ(1925-1979)
  • ・Jean Jacques Millant ジャン=ジャック・ミラン(1928-1998)
  • ・Bernard Millant ベルナルド・ミラン(1929-2017)
すべての楽器・弓はご試奏いただけますが、密を避けるため、予約制とさせていただきます。

予約方法
店舗での試奏は完全予約制とさせていただきます。
ご試奏のご予約やご質問は、 お問い合わせフォームまたはお電話 (03-5803-6969)にて。

営業時間
火〜土 10:30~18:30
定休日:日・月
※2020年5月26日より営業時間を変更しております