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クロンベルク・アカデミーは、伝説的チェリストのムスティラフ・ロストロポーヴィチが2007年に亡くなるまで指導に関わっていたことや、音楽祭や公開マスタークラスなどのイベント、世界に羽ばたく卒業生たちを通じて、国際的に知られています。
未来を担う若手ソリストが世界各地から集う場所として、近年存在感を増している同アカデミー。室内楽フェスティバル「Chamber Music Connects the World」の開催に合わせ、所在地であるドイツ・クロンベルクを訪ねました。
同アカデミー創立者でチェリストのライムント・トレンクラーさんにお話を伺い、多くの人をひきつけるアカデミーの魅力に迫ります。
ドイツ・フランクフルトから20分ほど電車に揺られると、クロンベルクの駅に到着します。単線のホームから2分も歩かないうちに目に飛び込んでくるのは、波打つような屋根を持つ建物です。
こちらが昨年9月にオープンしたばかりのコンサートホール『カザルス・フォーラム』。30年前に創立された私立の音楽アカデミー『クロンベルク・アカデミー』に関わる人々の念願が叶って遂に完成したホールです。収容人数は550名ほど。最高の音で室内楽を楽しむために考え尽くされており、ホールの内側は天然オーク材で覆われています。六角の曲線を描く独特の形状で、舞台の近くで演奏を聴いている感覚が味わえることも特徴です。
ホールの脇には、小ホールやアカデミーの学生用の練習室などを擁するクロンベルク・アカデミーのスタディ・センターが併設されており、小さな広場に楽器を背負ったアーティストやコンサートにきた人々が行き交う姿が見られます。
同アカデミーには、世界各地から集まった10代から20代の若い音楽家たちが40名ほど在籍しています。クロンベルクでは30年前にチェロのマスタークラスが始まり、そこから発展を重ね、現在ではヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、コントラバスの弦楽器に加えてピアノの学生も数人おり、バチェラーとマスター、プロフェッショナルスタディというコースのいずれかに所属しています。
所属する学生の国籍や来歴はさまざまですが、国際コンクールの受賞歴があるプレーヤーばかりで、ソリストとしてすでに国際的に活躍する人も多数在籍しています。そのため、個々人のスケジュールや求める学習内容に合わせ、カリキュラムが非常にフレキシブルに組まれることが特徴のひとつだといわれています。
また、弦楽器の学生でもピアニストのアンドラーシュ・シフや指揮者などからもレッスンを受けられることや、他の楽器のマスタークラスの聴講が単位に含まれていること、コンサートで演奏をするチャンスがとても多いのも特色です。
自身がチェリストでもあるクロンベルク・アカデミー創設者のライムント・トレンクラーさんは、1993年に同アカデミーを創立しました。当時の思いを振り返って、こう語ります。
「音楽界のなにかを動かしたかったのです。自分自身も音大生だったので、とりわけ才能のある音楽家が経験する『ギャップ』があり、素晴らしい才能を持った人々が挫折していくのを見ていました。例えば、コンサートツアーが控えていて前日の夜のレッスンに参加できず、卒業のための単位が取れないというケースがあります。先ほどマルティン・ヘイムヒェン(ピアノ)と話していましたが、彼や他の多くのアーティストはそのような理由で試験にとうとう受かることができなかったのだと思います。アンネ=ゾフィー・ムターは個人的に環境を整え、彼女にとって必要なものを家族から得られていましたが。
教育機関を設立することを考案したとき、ロストロポーヴィチやマルタ・カザルス・イストミン(カザルス未亡人)と会話をしました。音楽という素晴らしい言語を未来の世代に最高のレベルで手渡し、文化遺産として生かし続けるためのアカデミーを作るアイディアについて話して賛同を得たのです。
先生をいつ変えるか、どのマスタークラスが価値があるのか、楽器や時間、コンサートが必要か……こういった全ての側面において、私たちは教育機関としてテーラーメードのカリキュラムを用意し、未来の音楽的リーダーになる才能ある若手に提供しています。
今の世代から次の世代へ知識をつなぐ生きた接点として、アカデミーが機能することを今、実感しています。バトンを受け渡していくのが重要なのです」
写真:『カザルス・フォーラム』客席でサポーターに説明をするライムント・トレンクラーさん(写真右)
Photo © Andreas Malkmus/Kronberg Academy
クロンベルクでは、過去にピアノではアンドラーシュ・シフ、メナヘム・プレスラー、弦楽器ではギドン・クレーメル、クリスティアン・テツラフ、今井信子、タベア・ツィンマーマン、ユーリ・バシュメット、フランス・ヘルメルソン、スティーヴン・イッサーリス、ゲイリー・ホフマンなどの演奏家たちが過去に指導し、音楽祭で学生と共演しました。ソリストとしても国際的に活躍する演奏家たちばかりで、錚々たる顔ぶれです。クリストフ・エッシェンバッハやダニエル・バレンボイムら指揮者も指導に来ています。
「ここには、通常は大学で教えていない音楽家も指導に訪れています。彼らから次世代にバトンを渡すための信頼が得られているのです」(トレンクラー)
同アカデミーの学生は専攻する楽器以外のアーティストから指導を受けることが珍しくありません。学生たちがすでに技術的に完璧な状態だからこそ、楽器を問わず、音楽の本質について学ぶ段階にあるからだとトレンクラーさんは語ります。
「レベル的に、楽器ではなく、すべては音楽についての学びです。チェリストにとって、ピアニストなど他の楽器の指導者からのアドバイスはより価値のあるものになりえます。なぜかというと、技術的な問題にブロックされることなく、音楽についてより多くを理解することにつながるからです。
アカデミーはチェロから始まりましたが、 弦楽器のための教育機関を作るという計画はいつも念頭にありました。10年前にはアンドラーシュ・シフ・ピアノプログラムという、ピアノを含む室内楽に特化したコースが始まり、現在はピアノの学生が4人ほど在籍しています。弦楽器奏者にとって、同じ水準のピアニストを見つけるのは重要なことです。
ピアニストのヘイムヒェンは17歳で入学して室内楽を学び、今ではここで指導に携わっています。ヴィオラのアントワン・タメスティもここで多くのことを学び、人生経験になったとよく言っていて、すでにクロンベルクで次世代を指導しています。世代がつながっていくのを見るのは、とても喜ばしいことです。
さらに、卒業生の中にはベルリン・フィルのヴィオラ首席になったディヤン・メイやウィーン・フィルのコンサートマスターに就任したヤメン・サーディのように、音楽界で地位を獲得した演奏家もいます。彼らは音楽的・芸術的な『ホーム』であるクロンベルクと連絡をとり続けています」
同アカデミーの学生は、学習プログラムの一環としてコンサートで演奏する機会を多く与えられます。2年に一度初夏に開かれる室内楽の音楽祭『Chmaber Music Connects the World』や秋のクロンベルク・フェスティバルなどがその代表例です。
「室内楽のマスタークラスでも、教師と生徒という立場のやりとりだけではなく、指導者が学生と一緒に弾きます。聴衆の前でワーキング・コンサートという形で演奏するのです。音楽祭では卒業生も世代のラインに加わり、学生とも関わっています。音楽的な学びの大部分は、実際に演奏することから得られますからね。
さらに、室内オーケストラのクレメラータ・バルティカやヨーロッパ室内管弦楽団がカザルス・フォーラムのレジデンスをしてくれていて、素晴らしい若手ソリストに協奏曲などの演奏機会を与えてくれることを嬉しく、誇らしく思っています。
また、ニューヨークのカーネギーホールやロンドンのウィグモアホール、日本のサントリーホールなどとの協働で、定期的に世界のあちこちでシニア・アーティストと室内楽を演奏する機会も設けられています」
学生は一方的に指導を受けるだけではなく、ジュニアプレーヤーに指導をするという機会も与えられています。2002年開始のプロジェクト『Mit Musik – Miteinander』で行われるワークショップで、選抜された少人数のジュニアのグループに対して、学生自らが選んだ曲を通して指導するというものです。
「12歳から19歳までのドイツ、スイスやオーストリアのコンクール受賞者のジュニアプレーヤーをアカデミーの学生が指導します。次の世代に伝えるということをかなり早い段階で理解するための貴重な経験です。
偉大な音楽家たちから学ぶことは重要です。しかし、アカデミーの学生は学生同士でお互いに大きな学びを得ているという点も見逃せません。小規模なグループで、ソリスト同士で学ぶことも大切なのです。
他の大学において彼らはスター的な存在で、同じように高いレベルのパートナーがおらず、孤独な状況に陥ることがあります。しかし、クロンベルクの環境ではすべての学生がそれぞれ素晴らしいスキルを持っているので、仲間から学べる。これがクロンベルクで学ぶことの秘密のひとつですね」
今後のカリキュラムには、普段コンサートに足を運ぶ機会のないアルツハイマーなどの病気や障がいのある人を招いた演奏会などのプロジェクトも含まれることになっています。
同アカデミーの根底には、チェリストのパブロ・カザルスへの深い尊敬の念が流れています。カザルスは偉大な音楽家であっただけではなく、平和活動を行う人道主義者でもありました。
「音楽的なリーダーになるには、音楽的・人間的な成長が欠かせません。音楽家が社会において責任ある存在になるために、どのように人格を育てていくか。パブロ・カザルスの思想に基づいて、音楽だけではなく人類と地球のために、責任を担うことにつながります。
一般の聴衆だけではなく、視覚障害者やハンディキャップのある人たちなど、音楽にアクセスしづらい立場にいる人々に音楽を届けるソーシャル・プロジェクトを行っています。若い音楽家に、音楽は何を動かせるのか、本来の目的や対話とは何なのかを体験してもらうのです。
私たちはまず人間であり、その次に音楽家です。人間として社会に寄与しなければなりませんし、音楽家として人類に貢献しなければならない。カザルスはいつもそう語っていましたし、説得力をもって体現していましたよね。
音楽家にとって、クラシック音楽の感情に働きかけるパワーを目にするのは感動的なことです。ソーシャル・コンサートは、音楽家と対象となる20人ほどの人々だけで行われます。
学生たちは音楽のパワーを感じて、音楽を通して価値のあることができるのだと理解します。ときにはコンサートホールでお金持ちのお年寄りのためだけに演奏するために生きているのかと疑問に思うこともあるでしょう。そういった意味で、社会的なバリアなしに、即座に反応を得られるのは感動的なことなのです。今回の音楽祭期間中にも、ソーシャル・コンサートが3回ありました。
卒業生はクロンベルクに帰ってくると、魂にエネルギーチャージをするようです。私たちは何を・なぜ行っているのか知るために、本当に価値のあることをシェアしているという感覚が必要なのです」
「私たちはヨーロッパにおける唯一の大学レベルの私立の教育機関かもしれません。難点もありますが、若い音楽家が確かな技術を持っていても財政的な問題で大学に入れないようなときのために、私たちはパトロンという制度を設けています。
パトロンは学生の場所のために個人的に資金を提供する人の集まりです。彼らは音楽教育を間近で眺めるチャンスを代わりに得て喜んでいます。学生とパトロンが友達関係になる場合もありますが、お互いに直接属してはいないのが良いところです。
アカデミーが学生とパトロンの間に入っているので、学生が間違った態度をとってパトロンから資金提供を止められるのでは、などという不安を抱く必要がありません。その代わりに表面的な関係ではなく、本物の関係を築く自由があるのです」
パトロン制度の他にも『クロンベルク友の会』を通して、年間1万円ほどで同アカデミーをサポートしている人が増えてきています。地元の人々だけではなく、海外にも『友』として関わりを持ち続けているファンの輪が広がっているようです。
「財政的なことももちろんありますが、サポートしたいという気持ちの面が大切なのです。フレンズの方たちが若い演奏家たちの成長を見て喜ぶことで、クロンベルクのあたたかい雰囲気を生み出してくれています。今では1800人以上のかなり大きなグループになっているんですよ。東京や大阪にもいらっしゃいます。
私たちはNPOの財団として、『クラシック音楽という文化遺産を望みうる最高のレベルで維持していく』という理念の一部になり、価値のあるものを支えているのだと感じていただいています。ある種の信頼と確かな理解の上に成り立っていることなのです。
クロンベルク・アカデミーには世界中から選び抜かれた最高レベルの才能ある演奏家が集まっています。そのような精鋭のソリストの教育プログラムでありつつも、『象牙の塔』ではなく、社会に深く根付いているのですよ」
音楽祭の期間中、朝9時半からの公開リハーサルに足を運ぶと、平日にもかかわらず、10代から60代までの30名ほどが集まっていました。
クロンベルクの卒業生たちが音楽祭コンサートのために初対面でクァルテットを組み、ステージでリハーサルを開始します。ドヴォルザークの弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」を練習する4人が舞台に現れた時、筆者の隣には身を乗り出して舞台を食い入るように見つめる2人の男性がいました。
地元の音楽ファンだという彼らは、行けるかぎり多くの公開リハーサルに参加しているのだといいます。
「目を閉じると、情景が浮かび上がってくるようで、本当に素晴らしい演奏ですよね。特にチェロのサンティアゴ・カニョン=バレンシアはすごい。パトロンにはなれないけれど、この音楽家たちがクロンベルクに来たばかりの頃から見知っているから、何だか友達のように感じています」とも語ります。
リハーサルを見学すると、音楽の創造の瞬間に触れる機会が増え、音楽をより近く感じるようになります。一人ひとりの顔の見える距離で定期的に演奏を聴く機会を通して、個性豊かな若い演奏家たちが成長していく様子を見ることも聴衆にとっての喜びです。
心に寄り添ってくれるような親密さや奥深さのある室内楽という音楽ジャンル。クロンベルクには、室内楽の演奏を間近で聴き、若いプレーヤーの成長を見守りつづけることで、クラシック音楽そのものにより近づき、より深く楽しむようになった人々が確かに存在していました。
<後編では、パトロンとして支援するサポーターの声や、音楽祭に出演した卒業生たちのインタビューをお届けいたします。>