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ベルリンの壁崩壊から30年が経過。これに際し、ベルリンの壁があった時代の音楽家の生活と思いについて、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(以下ベルリン・フィル)として活躍したチェリスト2人にお話をうかがいました。

(前編の続き)


東西ベルリン間の移動はもちろん、演奏活動においても制限のある状況下で、チェリストたちは社会における音楽家の役目をどのように捉えていたのでしょうか。

「ひとつ役目として感じていたのは、東ドイツの作曲家たちの新曲を演奏し、広めるということです。ウード・ツィンマーマンという作曲家がライプツィヒの12人のチェリストの演奏を聴いて物凄く感動して、新曲を書いてくれました。私は常にいろいろな人たちと直接連絡を取り合っていたので、私とツィンマーマンとつながったのは容易いことで、彼が書いた曲をその後の演奏会で12人のチェリストが演奏しました」(ヴァインスハイマー)

「このチェロ・アンサンブルがヴァインスハイマーさんのコネクションのおかげで世界的に有名になったので、いつかは必ず東に住む同じドイツ人のために演奏しようという強い感情、政治的な思いを抱いていました。それが私たち12人のチェリストが考えていた一番大事な役目だったのです。最終的にはそれを実現することができました」(ヴェドウ)

ひとつのベルリン・フィルと 
2つに分割されたベルリン


なぜ母体であるベルリン・フィルではなく、12人のチェリストが東ドイツで先立って演奏を実現することができたのかと問うと、「12人のチェリストのほうが優れていたからね」とヴァインスハイマーさんは得意気な笑みを浮かべます。

「12人のチェリストはオーケストラとは関係なく、独自のアンサンブルとして活動していました。最初のザルツブルクでのコンサートで、指揮者カラヤンが客席にいましたが、彼は演奏を聞きながらずっと首を左右に振っていました。なぜなのかと私が尋ねると、『君たちが指揮者なしでここまで行けるとは、夢にも思っていなかった。これで君たちの実力が分かった』と話してくれたのです」(ヴァインスハイマー)

ベルリンという都市は、地理的には東ドイツの中心部にありながら、東西二つに分割統治されていました。そのため、西ベルリンは東ドイツにとって捉えがたい微妙な存在だったようです。そういった流れから、ベルリン・フィルは東ドイツからは矛盾の象徴のようなものだったのかもしれません。
しかし、本当の「ベルリン」は2つに分けることなどできない、ただ一つのものだという思いは人々の心の奥底に隠されていたことが言葉の端々から伝わってきました。

「東側が西ベルリンの団体を受け入れなかったという話は、ベルリン・フィルに限らず、他の色々な分野でもありました。西ベルリンというのは西ドイツの領域であって、東からは認められていなかった。ですから西ベルリンは独立したよく分からない政治的な存在であって、東ドイツや東ベルリンからその存在をあまり認められていなかったのです。
経済的・政治的なことで西ベルリンが東側から存在を認められていなかったというケースはたくさんあります。ベルリン・フィルに対してはモスクワでは1回きりですが、それ以降、嫌がらせではないけれどそういうことを経験したことはあまりないけれど、きっと政治的な場面や経済の中で、お互いに干渉し合うようなケースがその時代にはあったのです」(ヴェドウ)
東西ドイツの音楽家の間で日常的な交流はあったのでしょうか。

「東西の音楽家は、小規模ですが交流していました。壁が作られる前からの知り合いはそのままコミュニケーションを取り合ったりしていましたが、西から東へ東から西へ、普通の郵便で手紙を送ると東ドイツの秘密警察に中身を確認されますが、その点以外は普通にコミュニケーションを取れていたはずです。
ベルリン・フィルはステータス、知名度があったので、他と交流するのが余計難しかったようです。その他の地方の音楽団体などは普通に東に行って演奏したり、また東の有名な歌手などが西に来てツアーをしたりしていたので、音楽的な交流はあったと言えます。ただ、知名度が高かったベルリン・フィルは違う立場にあった。動きづらかったようなのです」(ヴァインスハイマー)
「ベルリン・フィルというのは世界的に有名なオーケストラでしたが、東ドイツの人々にとっては『西ベルリン・フィルハーモニー』として捉えられていたからかもしれないと私は思います。一部の東ドイツ人には、ベルリン・フィルを『ベルリン全体のオーケストラ』として受け入れていなかった人もいた。もしかしたらそういったことが原因で、ベルリン・フィルという名前を持ったオーケストラが東には行きづらかったのではないかと思います。
モスクワ公演では、看板などにも『西ベルリン・フィル』と書かれている中で、カラヤンは『せめて舞台上では西ベルリン・フィルではなくベルリン・フィルとして紹介してほしい』という条件を付けました。そうしないと我々はもう帰るとまで言ったので、モスクワの文化担当の政治家はそれを受け入れました。実際に、オーケストラの演奏前に舞台に若い女性がやってきて、マイクを持ち『次に、西ベルリン・フィルハーモニーではなく、ベルリン・フィルハーモニーのオーケストラが演奏します』と言いました。そうしたら、舞台上だけではなく観客席も大笑い。言ってみれば、皆もう誰が出るかは承知の上だったので、そういったおかしなやり取りを見て面白がっていたのです」(ヴェドウ)

壁が崩壊した日の記憶


長い断絶の時代は28年間もの間続きましたが、1989年11月9日になって、ついに壁が人々の手で崩される日が訪れました。チェリストの二人は、その日について何を記憶しているのでしょうか。

「壁が崩壊した夜、妻は父の誕生日でボンにいたので、私は自宅にいて、一人でテレビを見ていました。すると特報が入ったのです。東ドイツの有名な小型車のトラビーが何台も(東西の境を)通り過ぎる映像を見ながら、壁の崩壊を信じられないような気持ちで見ていました。喜びすぎて、赤ワインを一本空けてしまいましたね」(ヴァインスハイマー)

「ちょうど壁が崩壊した日、その翌日に誕生日を迎える私の友人がドイツ北部から遊びに来ていました。彼はベルリンのカーデーヴェーという有名なデパートの近くのホテルに泊まっていたのですが、テレビを見ていなかったので壁が崩壊したことすら知らずに9日から10日までの夜を過ごし、ベルリンは賑やかな街だなぁと思ったのだそうです。
翌日、いつもこんなに夜遅くまで騒いでいるのかと私に訊いてきました。それで、ニュースを見ていないのか、壁が崩壊して東ベルリンの人々が……という話をすると、彼はその時、壁崩壊を初めて知ったのです。

ベルリンの町中は蟻の巣のような状態
で、ブランデンブルグ門から歩いて10分くらいの観光スポットまで車で行こうとしたら、だいたい1キロの距離に1時間半ほどかかりました。それほどの人混みで、たくさんの東側の人たちが壁を乗り越えて西に来ていたのです。西の人たちも当然壁の近くに集まって、お祝いをしていました。そのようなお祭り状態の中で観光したのが思い出に残っています」(ヴェドウ)
壁崩壊の3日後である11月12日には、ダニエル・バレンボイム指揮でベルリン・フィルが特別な演奏会を開き、そこには元・東ドイツの住民たちが無料で招待されました。その記念すべき演奏会にヴェドウさん、ヴァインスハイマーさんの二人が出演している様子は、今でも映像資料で確認することができます。

「あの日は皆、号泣でした。コンサートの映像は映画化もされていて、演奏の一部と関係者のインタビューが収録されたのですが、バレンボイムさんはすごく感情的なコメントをされていました。私もコンサートの休憩時間に取材を受けたのですが、3文だけ言って、それ以上何か言ったら泣き出しそうな状態でした。それほど感情が高ぶって、溜まっていて……。演奏に参加した人皆が『これほど美しく、これほどサスペンスがあるコンサートというのはこれまでにもこれ以降にもないのでは』と話していました。かつて経験したことがなかったようなできごとでした。そういった意味では唯一無二の今までで一番素晴らしいコンサートだったと皆が口を揃えて言っています」(ヴェドウ)

2500人ほどの東ドイツの人たちが来ていました。コンサートの告知は、当時の東ドイツのテレビやラジオ番組の前や劇場などの予告編に行われたので、演劇を見ていた人たちは休憩時間になると外に出て車に乗り込み、一晩中、例えばライプツィヒからベルリンに向かって車を走らせてきて、着の身着のままかけつけたという人たちがたくさんいたのです。それほどの大きなできごとでした」(ヴァインスハイマー)

チェロという楽器が秘めた可能性

写真:神戸でも行われた1000人のチェロ・コンサートの話題が出ると、ヴァインスハイマーさんはこの引き伸ばし写真を家のどこかから取り出してきて懐かしそうに眺めていた


近年になって、世界各地で数多くのチェロ・アンサンブルが演奏されるようになりました。その発端ともいえる国際的人気を誇るチェロ・アンサンブル『ベルリンフィル12人のチェリスト』の結成に関わった2人は、どのような思いを抱いているのでしょうか。

「12人のチェリストは、元々は4人のチェロ奏者が私の自宅のこの部屋で始めたことでした。私の誕生日のために友人たちがここで演奏し、日本の大隈ホールやザルツブルグでも演奏することになったのです。
チェロという楽器がすごい可能性を秘めていることは私もヴェドウさんも同意見です。ザルツブルグでのコンサートホールの録音担当がその響きをすごく気に入ってくれたので、4人だけではなく12人のチェリストで弾ける曲を探しました。通常なら、ザルツブルグなら本場のウィーン・フィルハーモニーに聞くべきという順序だったが、あえてベルリン・フィルで12人集めたいと私が尋ねてまわったら、集まった。
ベルリンのツェーレンドルフ地区でも341人のコンサートが開かれました。その頃、日本でも12人のチェリストの演奏会を開き、天皇陛下に会って、341人の演奏会の時の写真を渡したのです。その時、『次は日本でもこのようなコンサートをやりましょう、でも規模はこのように小さくなく、どうせなら1000人でやりましょう』と言ったら、陛下は微笑みながらそれを受け取ってくださった。その後に松本巧さんと知り合って、彼が見事に全てを企画し、実現したのが『1000人のチェロ・コンサート』で、それは何回も続くものになったのです。そういった面で、チェロは大きな可能性を秘めている楽器であることは間違いありません」(ヴァインスハイマー)
2022年に『ベルリン・フィル12人のチェリストたち』は結成50周年を迎えます。

オリジナルメンバーが集まってから50年です。その時には、ヴェドウさんとお互いに寄りかかって、松葉杖をつきながら舞台に上がろうと話しています。50周年のお祝いにはコンサートを開きたいですね。ベルリンのオリンピックスタジアムにステージを作って、マイクなしで周りの人に音はあまり聞こえないように、見た目は良く。そのような計画があります。でもいつも冗談ばかり言うので……」(ヴァインスハイマー)

「12人のチェリストも実は冗談から生まれたのです。実際にあれほど成功すると信じていたのは彼一人でした。最初にユリウス・クレンゲルの曲を演奏した後、次はコンサートを丸ごとやろうと彼が言ったとき、私は『頭がおかしくなったんじゃないか』と言ったくらい。曲がないのにどうやって演奏会をするのかと。しかし、それでも彼は曲を集めて実現させたのです」(ヴェドウ)

未来を担う人々へのメッセージ

インタビューの最後に、ベルリンの壁崩壊後30周年に際して、これからの未来を担う人々へのメッセージを2人から受け取りました。

「私が生涯で一番嬉しかった言葉は、オーディションの結果をもらった時、『オーケストラ全員があなたに賛同します』というもの。オーケストラの全員一人ひとりが私を受け入れようと思ったという意味です。今後の若い世代にも同じ一言が言われるようになればいいと思います。音楽家など自分たちの夢を追及している人たちが目指しているところにそういった形で受け入れられたらいいと願っています」(ヴァインスハイマー)

「政治的な話になりますが、現在の地球、世の中全体の状況を見ると、心配になる部分があります。民主主義だけではなく、ヨーロッパ全体の生活、欧州的な生活が危機にさらされていると感じている人が数多くいると感じています。ちょっと大げさになりますが、もしヨーロッパで全てが滅び、ただ一つのものが残ることになったら、私はヨーロッパの音楽を残したい。これさえ残れば、他の人たちにとって生き残る勇気、支えになると信じています。クラシック音楽は唯一無二の文化であって、それほどの力を持った何かなのです。それだけは残したい、大切にしてほしいと思っています」(ヴェドウ)
取材・文/安田真子

プロフィール:オランダ在住。音楽ライター、チェロ弾き