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1984年から1993年まで、文京楽器が発行していた季刊誌Pygmalius(ピグマリウス)より、インタヴュー記事を復刻掲載します。当時、Pygmalius誌では古今東西のクラシック界の名演奏家に独占インタヴューを行っておりました。
レジェンドたちの時代を超えた普遍的な理念や音楽に対する思いなど、心に響くメッセージをどうぞお楽しみください。
写真:東京クヮルテット時代の名倉さん。左から原田幸一郎さん、一人おいて原田禎夫さん、磯村和英さん
引用元:季刊誌『Pygmalius』第37号 1991年4月1日発行
今ねえ、いちばん欲しいのは練習する時間なんですよ。子どもが二人おりますでしょ、イヤでもそちらに時間を取られ てしまう。それ以外のおいしい時問は教え子に取られてしまう、という具合なんですね。一咋年から桐朋学園大学の非常勤講帥になりました。
もっともっと腕に磨きをかけたいと思っているんですけど、なかなかその時間がさけないことにイライラしてます。ただ、これまでにアメリカとヨーロッパ、両方の音楽に接してきたことは、とても良かったと思います。
大学を終えてから、ジュリアード音楽院に留学しました。ジュリアードは、それはものすごい競争でした。みんなハングリー精神にあふれていて、必死にチャンスを狙っている。ジュリアードの場含は、優秀な人はたいていユダヤ系でした。そこで感じたのは、ユダヤ人の音楽というのがあるんだということ。いわゆるジューイッシュ・トーン。そして熱い音楽の表現法……とくに弦はね。それがアメリカの音楽の代表ではないかと思いました。
ジュリアードには、結局、足かけ3年間しか在籍しませんでした。途中で、「東京クヮルテット」を結成してしまいましたから。 クヮルテットには合計6年間いたことになります。わずかな期間ですけれど、あの6年間の比重はものすごく大きいですね。アンサンブルの綿密さとか音楽の構成なんかは、あの時代に徹底して習ったような気がします。
しのぎを削るようなクヮルテット時代を経て、のんびりとした音楽環境のヨーロッパに飛んだんです。
ドイツのハンブルグに2年いて、バンベルグに8年。アメリカに比べてはるかにのんびりとした音楽環境のヨーロッパ、でも音楽の伝統というのは大変なものですね。音楽的にはアメリカよりも、はるかに強い影響をうけました。
今、日本人は皆さんいい楽器を持っていますね。生徒でさえストラディヴァリを持っていることもあります。私たちの若い頃だと、良いものでせいぜいヴィヨームでした。
家はさほどのお金持ちではなかったので、アメリカに行ったときは日本製の18 万円の楽器を持って行ったんです。クヮルテットをやり始めたときは、ジュリアードで借りたG.B.グァダニーニを弾いていました。弾けば弾くほど好きになる楽器で、今でも好きな楽器のーつです。
その後、クァルテットでアマティのセットを借りるようになりましたが、あるとき、クァルテットのメンバーたちとフィラデルフィアに楽器を探しに行って、ダラコルテを買ってしまったんです。ほんとうは、メンバーの原田さんが気に入って いたんですが、そのときどういうわけか 私のほうが、余計にお金を持っていたんです。ずいぶん、原田さんには恨まれました(笑)。
クァルテットをやめてからダラコルテに戻ったのですが、もつといい楽器が欲しくなりました。そしたら、またフィラデルフィアでニコラ・ガリアーノを見つけ たんですが、お金がない(笑)。諦めてい たら、ニューヨークでベルギーにいたとき知りあったおじさんと、たまたま会ったんです。
その方はダイヤモンド・ビジネスをやっていた方ですけれど、「ぼくが買ってあげる。その代わり、ぼくが作曲したものをレコーディングしてほしい」と言うんです。レコーディングはしましたけれど、やはり気が重くて、あとでお金をお返ししました。
その後、いくつかまた替えて、今はピエトロ・ガルネリウスに落ち着いています。これは音色がきれいで、しかも自分で音色を作れるところがとても気に入っています。
これからもっと研究を深めていきたいのは、バッハですね。やはり偉大な人だと思うんです。
その時間がたっぷりほしい。またそこに戻りますけれどね……(笑)。