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心に響く、レジェンドからのメッセージ

1984年から1993年まで、文京楽器が発行していた季刊誌Pygmalius(ピグマリウス)より、インタヴュー記事を復刻掲載します。当時、Pygmalius誌では古今東西のクラシック界の名演奏家に独占インタヴューを行っておりました。
レジェンドたちの時代を超えた普遍的な理念や音楽に対する思いなど、心に響くメッセージをどうぞお楽しみください。

 

第14回 名倉淑子( ヴァイオリニスト)

写真: ピグマリウス第37号より
引用元:季刊誌『Pygmalius』第37号 1991年4月1日発行
第14回 名倉淑子 / Yoshiko Nakura , 1945- 2018

桐朋女子高等学校音楽科、桐朋学園大学音楽学部にて、齋藤秀雄らに師事。共に首席で卒業。その後、ジュリアード音楽院に留学し、在学中の1969年に、桐朋学園時代の仲間達と、東京クヮルテットを結成。1970年、ミュンヘン国際コンクール弦楽四重奏部門、アメリカのコールマン・コンクールで優勝。これにより世界から注目を浴び、東京クヮルテットのメンバーとして世界各地を演奏旅行を敢行し、数々の国際フェスティバルに出演、ドイツグラモフォンでのレコーディング等で活躍した。東京クァルテットを退団後、渡欧しハンブルク・コンセルヴァトワールで後進の指導に当たる。1981年よりバンベルク交響楽団のゲスト・コンサート・マスターに就任。同時にバンベルグ弦楽五重奏団のメンバーとしても活躍。バンベルグ交響楽団のゲスト・コンサート・マスターに就任。1988年帰国後、母校の桐朋学園大学で非常勤講師を務めた。2000年よりフェリス女学院大学で、特任教授として指導にあたる一方で、演奏者としても、ヨーロッパで活躍する音楽家達で結成されたニッポン・オクテットのメンバーとして、また、 水戸室内管弦楽団、及びサイトウ・キネン・オーケストラのメンバーとして活躍した。 

1. わたしのキャリアについて~欧・米、両方の音楽に触れて良かった~

写真:東京クヮルテット時代の名倉さん。左から原田幸一郎さん、一人おいて原田禎夫さん、磯村和英さん
引用元:季刊誌『Pygmalius』第37号 1991年4月1日発行

 

今ねえ、いちばん欲しいのは練習する時間なんですよ。子どもが二人おりますでしょ、イヤでもそちらに時間を取られ てしまう。それ以外のおいしい時問は教え子に取られてしまう、という具合なんですね。一咋年から桐朋学園大学の非常勤講帥になりました。

 

 もっともっと腕に磨きをかけたいと思っているんですけど、なかなかその時間がさけないことにイライラしてます。ただ、これまでにアメリカとヨーロッパ、両方の音楽に接してきたことは、とても良かったと思います。


 大学を終えてから、ジュリアード音楽院に留学しました。ジュリアードは、それはものすごい競争でした。みんなハングリー精神にあふれていて、必死にチャンスを狙っている。ジュリアードの場含は、優秀な人はたいていユダヤ系でした。そこで感じたのは、ユダヤ人の音楽というのがあるんだということ。いわゆるジューイッシュ・トーン。そして熱い音楽の表現法……とくに弦はね。それがアメリカの音楽の代表ではないかと思いました。

 

 ジュリアードには、結局、足かけ3年間しか在籍しませんでした。途中で、「東京クヮルテット」を結成してしまいましたから。 クヮルテットには合計6年間いたことになります。わずかな期間ですけれど、あの6年間の比重はものすごく大きいですね。アンサンブルの綿密さとか音楽の構成なんかは、あの時代に徹底して習ったような気がします。

 

 しのぎを削るようなクヮルテット時代を経て、のんびりとした音楽環境のヨーロッパに飛んだんです。

ドイツのハンブルグに2年いて、バンベルグに8年。アメリカに比べてはるかにのんびりとした音楽環境のヨーロッパ、でも音楽の伝統というのは大変なものですね。音楽的にはアメリカよりも、はるかに強い影響をうけました。

2.わたしの楽器ついて~ニコラ・ガリアーノとあしながおじさん~

今、日本人は皆さんいい楽器を持っていますね。生徒でさえストラディヴァリを持っていることもあります。私たちの若い頃だと、良いものでせいぜいヴィヨームでした。

 家はさほどのお金持ちではなかったので、アメリカに行ったときは日本製の18 万円の楽器を持って行ったんです。クヮルテットをやり始めたときは、ジュリアードで借りたG.B.グァダニーニを弾いていました。弾けば弾くほど好きになる楽器で、今でも好きな楽器のーつです。

 その後、クァルテットでアマティのセットを借りるようになりましたが、あるとき、クァルテットのメンバーたちとフィラデルフィアに楽器を探しに行って、ダラコルテを買ってしまったんです。ほんとうは、メンバーの原田さんが気に入って いたんですが、そのときどういうわけか 私のほうが、余計にお金を持っていたんです。ずいぶん、原田さんには恨まれました(笑)。

 クァルテットをやめてからダラコルテに戻ったのですが、もつといい楽器が欲しくなりました。そしたら、またフィラデルフィアでニコラ・ガリアーノを見つけ たんですが、お金がない(笑)。諦めてい たら、ニューヨークでベルギーにいたとき知りあったおじさんと、たまたま会ったんです。

 

 その方はダイヤモンド・ビジネスをやっていた方ですけれど、「ぼくが買ってあげる。その代わり、ぼくが作曲したものをレコーディングしてほしい」と言うんです。レコーディングはしましたけれど、やはり気が重くて、あとでお金をお返ししました。

 その後、いくつかまた替えて、今はピエトロ・ガルネリウスに落ち着いています。これは音色がきれいで、しかも自分で音色を作れるところがとても気に入っています。

 

これからもっと研究を深めていきたいのは、バッハですね。やはり偉大な人だと思うんです。

 その時間がたっぷりほしい。またそこに戻りますけれどね……(笑)。