今回は フィレンツェから75km離れた港町・リヴォルノで活躍したトスカーナ派のヴァイオリン製作家
アントニオ・グラニャーニ (
Antonio Gragnani) を紹介します。
生い立ち
アントニオ・グラニャーニ(1740頃生 – 1798没)がどのように楽器の製作を学んだかは明確ではありません。
フィレンツェで楽器作りの基礎を学んだと考えられていますが、トスカーナ(フィレツェを州都とするイタリア中央の州)派製作者の中でも個性的な製作スタイルで知られています。
トスカーナ派のヴァイオリン製作者たちの生涯については、これまでほとんど知られておりませんでしたが、最近のこの分野における古文書調査の成果により、多くの貴重な新情報が発見されました。
リヴォルノでは16世紀末から弦楽器製作者が活動していたことが明らかになり、18世紀以降もグラニャーニ一族に関連する重要な文書などの発見が続いております。
アントニオ・グラニャーニには、ジョヴァンニ・ピエトロとフィリッポという2人の息子がいたことが新たにわかりました。そして、これまで息子だと思われていたオノラートは、実際にはアントニオの父親であったことが判明しました。
また、息子ジョヴァンニ・ピエトロは様々な文献に「Chitarraio(キタライオ)」、現在では総じて弦楽器製作者を指す「リュータイオ」と呼ばれていますが、当時はギターのような指で弦をはじく弦楽器と、ヴァイオリンのような弓で弦を弾く弦楽器の両方を手掛ける弦楽器製作者だったことが記されております。
興味深いことに、アントニオの孫、ガエターノ・バストーギもキタライオでした。このような研究は、グラニャーニ家の楽器の年代を明らかにするのに非常に役立っています。
図:イタリアの地図。赤色の部分がリヴォルノ。
楽器のモデル
ユニークな楽器のモデルで知られているグラニャーニですが、彼は同時代のフィレンツェ派のヴァイオリン製作者とは一線を画す作家だったことがうかがえます。
楽器モデルは、当時のフィレンツェのヴァイオリン製作家が好んで採用していた
シュタイナーモデル(全体にアーチの高い、ふっくらとしたドイツ的なモデル)ではなく、アマティやストラディヴァリなど
クレモナ派のインスピレーションを感じさせるデザインです。
優雅な曲線をもったアウトライン、スクロールは縦に長く伸びたような個性的なデザインであり、裏板のボタン部や、指板の下、エンドピン付近など数か所にイニシャルの「
A・G」の焼印が押してあります。
またフルサイズのヴァイオリンだけでも大型・中型・小型と大きさの異なるモデルを使い分けており、クライアントの要望に対応できるよう意識して製作していたと推測できます。
グラニャーニには際立つ特徴が多く、他のイタリア製作者との見分けが比較的つきやすいといえるでしょう。
写真:Antonio Gragnani 1795年製ヴァイオリン
象嵌(パフリング)にくじらの髭(ヒゲ)
ヴァイオリンのアウトラインに沿って埋め込まれている、黒と白の線状の装飾は、象嵌(パフリング)と呼ばれます。これは楽器の美観的な意味合いだけでなく、楽器のフチをぶつけた際に、ひび割れが進行するのを防ぐ効果もあると言われております。
地域や製作者によって多少異なる場合がありますが、一般的なパフリングの素材は、ペアウッド(梨の木)のような固いの木材を染めたものが用いられます。しかし、グラニャーニの場合は特殊で、パフリングの黒い部分に
くじらの髭(ヒゲ)を使用しました。クジラの髭をパフリングに使った作品は、17~18世紀のオランダのヴァイオリン製作者にいくつか見られますが、イタリアにおいては他に例のない、興味深い事例です。
なぜ、グラニャーニがこうした素材を用いたのか。その秘密は、彼の活動した都市
リヴォルノが海に面していたことが関係していると考えられます。
他のフィレンツェ派作家の様に、内陸で手に入る素材を用いることはグラニャーニの選択にもあったことだと思います。しかし彼はそうしなかったのは何故なのか。ここからは少し想像が入りますが、おそらくクレモナ派の名工、ニコロ・アマティやアントニオ・ストラディヴァリのような「均一に濃く、はっきりとした黒のパフリング」を求めての選択だったのではないでしょうか。
実は、木材を染めるパフリングの場合、均等にきれいに黒染めするのには技術が必要です。また、楽器に埋め込む際に曲げながら入れるのですが、折れたり、ささくれたりするのでキレイに仕上げるには職人の技量が試されるポイントでもあります。
クジラの髭は比較的、色の定着と発色がよいのと、人間の爪とおなじケラチンで出来ているため、強度と弾力のバランスに優れています。こうした素材特性を知ったグラニャーニは、あえて他の製作者たちとは異なる手法を用いたのかもしれません。
写真:クジラの髭(ヒゲ)は、ヒゲクジラの口の中に生えており、オキアミなどをこしとって食べるための器官。
製作上の功績
グラニャーニの作品は、実用性の高いオールド楽器として、古くから演奏家たちに愛好されています。
同年代のクレモナ派に比べると相場はリーズナブルだが、設計や作りの精度はそれらと大きく変わりない為、音色・音量ともにバランスが良く、特に昨今のオールド楽器の価格高騰においては、プレイヤーが現実的に所持できる数少ない銘柄の一つとして、ますます注目が高まっています。
写真:17世紀頃のリヴォルノの地図
第4回はナポリの弦楽器製作者 アントニオ・ガリア―ノ2世(1791‐1860)を紹介いたします。
文:窪田陽平