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連載『我らが至宝―ヨーロッパの楽器博物館を訪ねて―』

第10回 ボローニャ国際音楽博物館・図書館【2】

前回に引き続き、ボローニャ国際音楽博物館・図書館(Museo Internationale e biblioteca della musica)スタッフのエンリコ・タベッリーニさんのガイドのもと、同博物館・図書館のコレクションを築いたとある神父の物語と同館ならではの『至宝』を1つをご紹介します。


 

神父の知恵で蒐集された楽譜コレクション 

前回ご紹介したように、同博物館・図書館の祖は、18世紀イタリアに生きたジャン・バッティスタ・マルティーニ神父でした。
彼は旅行をせず、寄付を受け取るような高い地位でもなく、そもそも清貧を誓うフランシスコ教会の一修道者であったにもかかわらず、最初期の『世界音楽史』を執筆しました。その際には、国内外の膨大な音楽資料が必要になります。彼はどのようにして資料を集めたのでしょうか。


その秘密は、マルティーニ神父がやりとりした手紙の束に隠されています。その数、同図書館に残っているだけでも6000通に及びます。

(写真/館内を案内してくれたエンリコ・タベッリーニさんと世界最古の活版印刷で生まれた楽譜)

「18世紀は、目新しいものが絶え間なく探求される時代でした。初演から一週間経つような作品は古いものとみなされていたのです。

J.S.バッハやヘンデルの作品番号を見てみると、すべて1000を超えています。彼らが多作な作曲家だった理由は、時代の要求に応えて常に新しいものを生み出しつづける必要があったからなのです。

その時代に生きたマルティーニ神父は、自分が手に入れたい楽譜を持っている相手には、このような手紙を書いて諭しました。

『あなたは前時代の興味深い楽譜をお持ちですね。しかし我が友よ、それを使って一体何をするつもりなのでしょうか。その音楽は16世紀の古い様式と記譜法で書かれているので、18世紀の私たちにとっては実際、何の役に立ちませんよね。

もしよろしければ、その役に立たない楽譜を私に送ってくださいませんか。その代わりに、この間イタリアで印刷したばかりの真新しい楽譜をお送りします。この楽譜を使えば、教会の祭礼などをなさるときに、人々の耳を楽しませることができますよ』と……。

時代のトレンドを利用し、『物々交換』という賢い手段で、マルティーニ神父は数多くの貴重な楽譜をたったひとりで収集することに成功したのです」(タベッリーニさん)

 

『我らが至宝』その1・世界最古の活版印刷された楽譜


マルティーニ神父が手に入れた楽譜のうち、最重要の楽譜コレクションのひとつが、こちらの『詞華集オデカトン(Harmonicae Musices Odhecaton)』の楽譜です。

(写真/イタリア・ヴェネツィアで活版印刷された『詞華集オデカトン』の譜面)
 

ヨハネス・グーテンベルクが誰なのかと聞かれれば、文書のための活版印刷術の発明者であることは広く知られています。グーテンベルクは1400年頃、ドイツ・マインツで42行聖書を印刷しました。

その後、楽譜用の活版印刷のための機械が発明されるまでには約50年ほどかかりましたが、イタリア出身の優秀な印刷業者であるオッタヴィアーノ・ペトルッチによって実現されました。

そういった意味で、ペトルッチは音楽界のグーテンベルクと呼べるでしょう。人類史上初めて活版で印刷されたこの楽譜は、1501年にヴェネツィアで印刷されました。

強調しておきたいのは、マルティーニ神父が生きていた頃、つまり1700年代半ばには、こちらの本は現存する最後の1冊だったという点です。

先述のマルティーニ神父の手紙を受け取った相手は、イタリアで刷ったばかりの楽譜と引き換えに、この歴史上とても重要な楽譜の本を手放します。そのおかげで、世界でたった一冊の世界最古の印刷楽譜が、ボローニャの私たちのもとに所蔵されているのです」

 マルティーニ神父は、音楽史におけるこの楽譜の資料的価値をよく知った上で物々交換をしたに違いありません。頭がよくて交渉上手な、ちゃっかり者のイタリア人だったのかもしれません。

同館では、世界最古の活版印刷されたこの楽譜と、マルティーニ神父が物々交換に使った自作曲の楽譜が並べて展示されています。


「こちらがジャンバッティスタ・マルティーニ神父によるイタリアの典礼のための音楽。マルティーニ神父は、優れた作曲家でもありました。こちらは1634年にボローニャで印刷された教会音楽であり、当時の出版上の新機軸であることもわかります」

 2つの楽譜に音楽的なつながりはありませんが、マルティーニ神父の機知と情熱を感じるのには充分ですね。

 

 もちろん、どの楽譜も簡単に手に入ったわけではありません。中には、16年もの歳月をかけて執拗に追い求めた上でようやく入手した楽譜も存在することが、マルティーニ神父と知人の手紙のやりとりから知られています。

実際に一冊の本も購入することなく、ひたすら手紙を書きつづけ、自ら作曲したイタリアの新しい音楽などを交換して資料を集めつづけたその情熱は計り知れません。



◆世界初の楽譜本『Harmonicae Musices Odhecaton』の詳細は、以下のページで確認することができます。

http://www.bibliotecamusica.it/cmbm/viewschedatwbca.asp?path=/cmbm/images/ripro/gaspari/_Q/Q051/

 

イタリアの音楽や言語が主流だった時代

 

1700年はヨーロッパ全土におけるイタリア音楽の黄金時代でした。

そのため作曲家は、誰もがイタリア語を完璧に操っていました。イタリア語を知る必要があっただけでなく、音楽の仕事をしたければイタリアに来て、いわゆる音楽のグランド・ツアー、つまり1年半以上もかかる修行の旅をし、イタリア語で楽譜を書く方法を学ばなければならなかったのです。
それが、今日でも世界中のすべての楽譜のすべての単語、すべての記号がイタリア語で書かれている理由です」(タベッリーニさん)

 

こういった時代背景も追い風となって、優れた作曲家でもあったマルティーニ神父の楽譜の価値は高まり、手紙を通じて世界の楽譜コレクターを通じて、楽譜コレクションが豊かになっていったようです。

 

音楽の専門家、指導者としても活躍


「当時のイタリアにおいて、とりわけ若い音楽家にとっては、マルティーニ神父の今日で言うところのマスタークラスを受けることが重要でした。ヨーロッパの音楽家の多くが、彼のもとで学ぶためにボローニャを通過したという記録も残っています。なんと、彼はすべての巨匠の父とまで称されていたのです」(タベッリーニさん)

楽譜などの音楽資料のコレクションを所有し、みずから学びつづけたマルティーニ神父は博識で、作曲家としても優れていました。その上、模範的な事例集として独自の教本を出版したことによって、その後、最も影響力のある音楽家となっていく若者たちと知り合うことになります。その一人に、J.S.バッハの末息子であるJ.C.バッハがいます。


「コロナ禍で、今日私たちが遠隔学習をしているのと同じように、マルティーニ神父はヨハン・クリスチャン・バッハのようなさまざまな音楽家たちを指導しました。バッハがイタリアへ楽譜などを送り、マルティーニ神父がそれを訂正するという形で進められていたことが、たくさんの手紙を通して知られています。

 

(写真/マルティーニ神父が書いた手紙の束を見せる図書館スタッフのクリスティーナさん)


当時、このJ.C.バッハは無名の作曲家でした。バッハの子供たちは19世紀のバッハ・ルネッサンスになって初めて再発見されたためです。
18世紀は争いや論争の時代でした。シリアスなオペラと喜劇的なオペラ、イタリアのオペラとフランスのオペラ、グルックのオペラとプッチーニのオペラが対立していました。

マルティーニ神父の力添えを求めにイタリアへやってきたのがJ.C.バッハでした。この若い作曲家がヨーロッパで最も偉大な音楽の専門家の一人として頼ったのが、マルティーニ神父だったのです。

マルティーニ神父はいつも皆の意見に同意していたので、皆が喜んで彼に本を送りました。彼の教えや手助け、つまり専門知識を頼ったり、意見をもらったりすることに対して、誰もがマルティーニ神父にお礼をしなければらなないことを知っていました。しかし、彼はお金を受け取れない。というわけで、若い作曲家たちから、楽譜や本などの音楽に関する資料が次々に贈られていったのです。

お礼としての本は、希少であればあるほど良い。彼がすでにそれを所有していたとしても、問題ありませんでした。重複した本は、ヨーロッパ中の他のコレクターとステッカーのように交換するのに使われていましたからね」

<引き続き、モーツァルトやヴィヴァルディの自筆譜や肖像画などのコレクションもご紹介していきます。お楽しみに!>

Text:安田真子(Mako Yasuda)
2016年よりオランダを拠点に活動する音楽ライター。地域のイベントや市民オーケストラでチェロを弾いています。