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今回の『弦楽ウォッチ!』では、この特別な機会に用意されたマーラーにまつわるコンサートや展示コーナーの模様をお伝えします。
(写真)(c)Eduardus Lee
5月11日、アムステルダム国立博物館の地下にあるオーディトリウムで『マーラーが演奏するマーラー』と題された、かの作曲家グスタフ・マーラー自身のピアノ演奏を聴くことができるというイベントが開かれました。
「マーラーが生きた時代は、社会が劇的に発展を遂げた時代で、写真もそのひとつでした。この貴重な『マーラー・スマイル』も、初期の記録写真として残されています」
アムステルダム国立美術館における楽器部門の保存担当学芸員であるジョヴァンニ・ディ・ステファノさんがマーラーの笑顔の写真をスクリーンに映すと、会場にも微笑みが広がりました。
(写真)ピアノーラ博物館学芸員のカスパー・ヤンセさん(左)とアムステルダム国立美術館楽器部門保存担当学芸員のディ・ステファノさん(右) (c)Eduardus Lee
今回のコンサートには、自動ピアノ(別名ピアノーラ)という装置が登場しました。こちらも、最初期の録音機器のひとつとして発明されたのだとディ・ステファノさんは語ります。
自動ピアノは、現在では滅多に見かけない楽器です。通常のピアノの鍵盤部分に設置したうえで、ピアノロールという専用の巻紙に記録された演奏を再生することで使用されます。
アムステルダムにあるピアノーラ博物館学芸員のカスパー・ヤンセさんは、こう語ります。
「この自動ピアノは、小さい穴の空いたピアノロールに記録された演奏を、80本の棒でピアノの鍵盤をそれぞれ押すことで演奏します。普通のピアノには88鍵あるのに、なぜこのピアノーラの棒は80なのか、正確な理由はわかっていません」
(写真)横から見た自動ピアノ (c)Eduardus Lee
1905年、マーラーはドイツ・ライプツィヒで、自作の2つの歌曲、そして交響曲第4番と第5番の一部をピアノロールに記録しました。今回はそのピアノロールを使うことで、マーラー自身による自動ピアノ演奏ともに、以下の作品が披露されたというわけです。
マーラー作曲:
歌曲「さすらう若者の歌」より第2曲「朝の野を歩けば」
歌曲「若き日の歌」第2集より「私は緑の野辺を楽しく歩いた」
交響曲第4番より第4楽章
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マーラーと『共演』したソプラノ歌手は、ジャネット・ファン・スカイクさん。交響曲第1番第1楽章にも使われたフレッシュで躍動感ある旋律や、交響曲第4番第4楽章にも使われている天国の世界についての歌を、マーラーのピアノとともに聴かせてくれました。
10歳の頃にピアニストとして舞台デビューしたマーラーにとって、ピアノの演奏はお手のもの。彼はその後、指揮者や作曲家として、世界を股にかけて精力的に活動することになります。
テンポや音量がまるで波のように変化しつづけ、ほとんど一所に止まらない激情的なピアノからは、エネルギーに溢れる音楽家の姿が蘇ってくるような印象を受けました。
(写真)マーラーの自動ピアノ演奏とともに歌うスカイクさん (c)Eduardus Lee
演奏後、スカイクさんは「まったくこちらに合わせてくれない自動演奏に合わせるのは大変でした」と苦笑。ピアノーラ博物館のヤンセさんは「途中、テンポがちょっと乱れたところは、マーラーの責任ではなくてピアノーラかロールの不具合もありましたね」と付け加えました。
再生速度を一部遅くして再生された部分があるにもかかわらず、全体としてかなり速めのテンポであったことに、聴衆からは驚きの声が上がりました。
同美術館は、マーラーの自動ピアノ演奏コンサートを開催しただけではなく、マーラーにまつわる特別な展示コーナーも設けることで、マーラーフェスティバルという史上3度目の祝祭を盛り上げました。
マーラーとオランダの絆を象徴するコレクションの一部は、2025年5月8日から6月2日までの期間限定で、同美術館展示室1-16において展示されています。
初公開資料を含む展示品をいくつかご紹介します。
1903年にコンセルトヘボウに指揮者として招かれたマーラーは、同美術館を訪問し、レンブラントの大作『夜警』を観て、感銘を受けたといわれています。
そのオランダが誇るレンブラントの作品にマーラーがインスピレーションを得て作曲されたのが、マーラーの交響曲第7番の第二楽章のNachtmusik(直訳「夜の音楽」)だといわれています。
同曲のマーラー自筆のスコアは、マーラーの死後、妻アルマ・マーラーから指揮者メンゲルベルクに贈られ、現在はオランダの国立アーカイブに所蔵されることになりました。それがこの総譜です。
その隣には、びっしりと書き込みがされた印刷スコアが並んで展示されています。書き込みをほどこしたのは、マーラーの同時代人だったオランダ人指揮者のウィレム・メンゲルベルクです。
1902年に交響曲第3番の初演でマーラーの音楽に惚れ込んだメンゲルベルクは、翌年すぐにコンセルトヘボウへマーラーを指揮者として招き、アムステルダムの聴衆や音楽家たちにマーラーの音楽の素晴らしさを伝えました。
以後、メンゲルベルクはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団第2代首席指揮者として、生涯にわたってマーラー作品を演奏しつづけました。マーラーの指揮するリハーサルにも出席し、マーラーがオーケストラに指示したことをくまなくスコアに記入していったのもメンゲルベルクでした。
そのおかげで、現在でもオランダには、作曲家自身の演奏上の指示という貴重な情報を含むスコアやパート譜が残されています。
(写真)左がマーラー交響曲第7番の初版スコアで、右がマーラー自筆の第7番スコアの1ページ
10年ほど前、マーラーの同時代人であり、アムステルダム出身の作曲家であるアルフォンス・ディーペンブロックの家族から、アムステルダム国立美術館に写真アルバムが寄贈されました。こちらも初公開資料のひとつです。
アルバムに収められた写真の中には、メンゲルベルクとディーペンブロックが、マーラーを囲んで散歩をする姿もおさめられています。
展示を手がけた学芸員のディ・ステファノさんはこう語ります。
「この写真は、マーラーがオランダを訪れたとき、郊外を散歩中に撮影されたものです。マーラーは都会の生活があまり好きではなく、アムステルダムの市内は少し混沌としていると感じていたため、可能なかぎり中心部から抜け出し、周辺地域を訪れることが多かったようです」
(写真)左ページにはディーペンブロックのポートレート写真が、右ページ上部中央にはマーラーを囲んでオランダの砂丘を散策するディーペンブロックらの写真が貼られている
展示室の壁には、マーラーやメンゲルベルクの肖像画とともに、いくつかの印象的なモノクロ写真がかかっていました。そのうちのひとつが、コンサート会場でも紹介されていた、例の「マーラー・スマイル」です。
「写真の一部は、評議会員でアマチュア写真家でもあったデ・ボーイ氏が撮影したものです。マーラーが微笑んでいる数少ない写真の1枚で、おそらく唯一の写真です。海岸のビーチで撮影されています」とディ・ステファノさんも微笑みます。
幸せな写真に並んで、1911年にウィーンでマーラーの葬儀が行われたときの写真も展示されていました。ディーペンブロックは葬儀にかけつけましたが、マーラーを誰よりも敬愛していただろう指揮者メンゲルベルクは、演奏ツアー中で参加できなかったという記録が残されています。
そのときメンゲルベルクが感じた思いは、1920年にマーラーの交響曲を全曲演奏する第1回目のマーラーフェスティバルの開催につながったのかもしれません。
マーラーとオランダの結びつきを紹介する展示コーナーには、小さな音量で音楽が流れていました。マーラーの作品のうち、もっとも有名な交響曲第4楽章アダージェットです。マリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による演奏でした。
2025年5月のマーラーフェスティバルによって、マーラーとアムステルダムの絆が再確認されました。今後、ますますマーラー熱が盛り上がっていくことを感じさせる日々でした。
写真提供:Rjiksmuseum Amsterdam
Text : 安田真子(Mako Yasuda)
2016年よりオランダを拠点に活動する音楽ライター。地域のイベントや市民オーケストラでチェロを弾いています。