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今回もボローニャ国際音楽博物館・図書館(Museo Internationale e biblioteca della musica)コレクションの中から、珍しい楽器や楽譜、肖像画などの作品を紹介します。ガイドをつとめるのは、同館スタッフのエンリコ・タベッリーニさん。ボローニャに眠る『至宝』とは……?
「うちのミュージアムは、弦楽器のコレクションはあまり豊富ではないけれど……」と言いながらタベッリーニさんが紹介してくれたのが、こちらの『トロンバ・マリーナ(Tromba Marina)』。
全長180cm以上ある長い楽器には、太い弦がたった一本だけ張られています。ネックとボディはひとつながり。作例は17世紀イタリアのものだと考えられていますが、楽器としての起源は、中世までさかのぼります。
(写真)トロンバ・マリーナを見せる博物館スタッフのタベッリーニさん
古くからギターのように弦をはじく撥弦楽器は広く使われていましたが、こちらのトロンバ・マリーナは現在のヴァイオリン属のように弓を使って演奏されていた擦弦楽器だったことが資料に残されています。
弓というものの起源は、シルクロード近くの中央アジアにある可能性があります。そこには多くの遊牧民部族が馬とともに住んでいて、馬の尾から弓の毛が採られているからです。
弓はそこから西の国々に伝来し、10世紀にはビザンチン帝国で弓の使用を証明する書物が残されているそうです。さらに、イスラムの地域からヨーロッパへと伝わり、イラン、インド、チベット、モンゴル、中国、韓国、日本、東南アジア、インドネシアの島々にも広がっていったようです。
トロンバ・マリーナは、12世紀ごろから弓で演奏されていたことがわかっています。楽器の名前は、トランペット(イタリア語で”トロンバ”)のかわりとして修道院の音楽アンサンブルで使われていたことから来ています。長いボディから単音で通奏低音を響かせる姿を想像してみると、なんだか可愛らしい楽器です。
◆詳細データ(イタリア語)
https://bbcc.regione.emilia-romagna.it/pater/loadcard.do?id_card=263910&force=1
トロンバ・マリーナの展示されている部屋には、もうひとつ注目すべき楽器が置かれていました。クラヴィムジクム・オムニトヌム(Clavemusicum Omnitonum)という珍しい鍵盤楽器です。
「正式名称はClavemusicum Omonitonum Modulis Diatonicis Chromaticis et Eniarmonicis……という、この楽器の鍵盤よりも長いくらいの名前です。
仕組みはチェンバロと同じですが、この楽器なら、基本的にすべての音を出すことができます。私たちがピアノと呼んでいる白鍵と黒鍵の列がある楽器とは対照的に、すべての単一音、半音、四分音のキーが備わっているのです。
『モデナ・プラティカで見た古代音楽』という本には、1606 年にヴェネツィアでヴィート・トラスンティーノによって作られたこの楽器と非常によく似た楽器のプロトタイプが記録されています。
弦楽器や声楽では、シャープとフラットを区別できますが、ピアノの鍵盤では、8度音が12の均等な部分に分割されているので、たとえばド#とレ♭は同じ鍵で演奏されますよね。
でもこの楽器においては、白い鍵盤がシャープで、黒い鍵盤がフラットで、それぞれ完全に純粋で調律されています。完璧な楽器というわけです。
では、どうして現代ではこの楽器が使われていないし、過去にたった1台しか作られなかったのでしょうか?
その答えは、理論上は完璧でも、実際は人間の手で演奏するのが難しいどころか、演奏不可能だったからです。5段もある鍵盤は広すぎて、スパゲッティくらい指が長くないと長さが全然足りません」(タベッリーニさん)
楽器が作られた背景には、音楽に対する当時の考え方が反映されていました。
「ピタゴラスの紀元前の美学や音楽哲学は、私たちが音楽を理解している方法とはまったく異なっていました。私たちは啓蒙時代やロマン派を引き継いでいるので、私たちにとって音楽は音の芸術であり、アーティストというのは少なくとも過去200年間、音楽家や作曲家を指します。
しかしながら、西洋では紀元前600年代ごろからの古代ギリシャから2千年近くにわたって、音楽というものはひとつの訓練であり、数学や幾何学、天文学にずっと近いものだったのです。
そこでは、音楽理論がまず第一にあり、楽器は実践よりも理論と優位性の重要性を証言するためのものだったのです。ですから、楽器を演奏する音楽家や作曲家は、せいぜい専門的な労働者だとみなされていました。この楽器を前にした演奏者たちは「この楽器の何がおかしいというのですか?」と言われたことでしょう。
この楽器は完璧です。実際、誤差というものは楽器にあるのではなく、人間の手のほうにあるのですから……」
(映像)所蔵されているClavemusicum Omnitonumの音が聞ける映像
(写真)消しゴムでこすった跡や3種類のインク跡が残る2つの添削つき楽譜。
写真提供:Museo internazionale e biblioteca della musica Bologna
さて、前回と前々回にお伝えしたとおり、こちらのミュージアムには数々の楽譜が所蔵されており、世界から訪れる音楽学者や愛好家を熱狂させています。
その中でも、ちょっと変わった楽譜のコレクションがこちら。かのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがイタリアの音楽院のテストを受験したころの自筆譜です。
「同館の始祖であるマルティーニ神父とモーツァルトを結びつけるエピソードは、モーツァルトが14歳で音楽教育を完了するために初めてイタリアにやって来たころに生まれました。
1770年の夏、モーツァルトはボローニャに滞在しました。目的はボローニャ・フィルハーモニー音楽院。 1666 年から存在し、現在も私たちの目の前、ここから 100 メートルのゲルラッツィ通りに存在する歴史ある音楽院です。
1700年にはすでに音楽大学とみなされ、そこに所属することは重要で、入学には現在でもイタリアの音楽院で行われているのとまったく同じ試験に合格する必要がありました。それは「クラウスーラ(clausura)」と呼ばれる作曲試験ですが、中世の拷問に近いものです。
クラウスーラにおいて、受験生にはメロディーや通奏低音が与えられ、それに基づいて、演奏楽器に応じて特定の様式で曲を書かなければなりません。テストは、受験生を密室に閉じ込めて行われます。
最も短い”監禁”は5時間ですが、最大45日間まで行われます。食事も出ますし、トイレにも行けて、ベッドもありますが、実質は監禁状態のきつい試験です。私も24時間かかる試験を経験したことがあります。
モーツァルトも例に漏れず、同じ試験を受けました。グレゴリオ聖歌のアンティフォナ(聖歌の最初に来るもの)が与えられ、彼はそれに基づいて残りの 3 つの声部を書かなければなりませんでした。
『モーツァルトの人生』という本を書いたスタンダールは、「モーツァルトは、十分な点数でスタンディングオベーションで合格した」と書き残していますが……これはちょっと変な言い回しですよね。十分な点数でどうにか通過したのか、満点でスタンディングオベーションなのか。
ここにひとつのミステリーがあります。まだよくわかっていないことがあり、現在でも研究中ですが、私たちが所蔵する資料を分析した結果、 1770年10月9日に何が起きたのか、ひとつの説をみなさんにお話しすることができます。
ボローニャには、音楽院の試験に関するモーツァルトの楽譜の3つのバージョンが残されています。ひとつは音楽院に提出されたもの。そのほか2つは、マルティーニ神父のコレクションの一部で、こちらに展示されています。モーツァルト本人のサインもあり、モーツァルトの自筆譜であることは確かです。
ここに展示された楽譜のひとつには、問題があります。音楽的な観点から見るとそれが完全に間違っているということです。モーツァルトはグレゴリオ聖歌について何も知らなかったため、間違いだらけだったのです。
あなたが偉大な文学者、偉大な詩人であっても、急に古典アラビア語や日本語で詩を書いてほしいと頼むようなものです。人生において最高の頭脳を持つことはできますが、言語を知らないとそれは不可能ですよね?音楽でも同じです。音楽には、あらゆる時代、あらゆる様式において、独自の厳格なルールがあります。したがって、それらを研究するか、発明することはできません。
実際、モーツァルトはここで古典的な様式、つまり彼と同時代の様式で曲を書いています。しかし、それは実質的には、グレゴリオ讃歌とは別の言語です。
この楽譜には、3種類の異なるインクの跡が残されています。あちこちに明らかな削除箇所、間違った箇所もたくさんあります。
(写真)音楽院に提出されなかった2つのバージョンの楽譜が展示されている
おそらく、モーツァルトは他の人たちに指導を受けたけれど、音楽院の学長でもあったマルティーニ神父は、モーツァルトがこの試験に合格するかどうか疑問に思っていたのでしょう。そこで、彼は介入することを決意した。試験の数日前に試験委員会に出向き、モーツァルトにどんな課題を出すのか聞いたのかもしれません。
新しい説では、モーツァルトは一種のドレス・リハーサルまで行ったとされています。これは実際に記録に残っていますが、通常は王子の子供たちに対して、彼らの評判を落とさないように行うものでした。プロの音楽家であったモーツァルトが行うのは例外的なことでした。
しかし、彼が何らかの形で完全に違法なことをしたとしましょう。それは誰の目にも明らかですが、マルティーニ神父がボスだったので、音楽院が神父のはからいでそれを延長した可能性があります。その時点で、マルティーニ神父はどういうわけかモーツァルトのもとに行き、このテストを試してみるように言い、モーツァルトは彼のために最初のバージョンを作曲しました。
マルティーニ神父はその楽譜を見て、これでは合格どころか、確実に拒否されるだろうと言いました。では、最初の悲惨なバージョンと 3 番目のバージョンの間に何が起こるのかというと……
神父はおそらくモーツァルトの席に座り、一緒になって再び作業を始めたのでしょう。神父は書きながら、ある時点まで来て「ここではどうする?」と問いかけます。モーツァルトは何か書きはじめますが、神父は「いや、違う。ここが間違っているから削除して、続けてくれ」などと言ったりしていたのでないかと思います。
試験の当日、モーツァルトはマルティーニ神父から教わったままを丸写しのように書いたようです。
私が学生たちにこのことを話すと、いつも大きな安堵のため息が聞こえてきます。なぜなら、モーツァルトがコピーしたかもしれないというエピソードは、誰にとっても希望がもてるものだからです。
この後、モーツァルトはマルティーニ神父と非常に親しい関係を保ち、手紙の中で神父を『私が最も愛し、崇拝し、尊敬する人』と呼び、ありがとう、とも書きのこしています」
ボローニャ国際音楽博物館・図書館が誇るコレクションのひとつに、作曲家の肖像画コレクションがあります。
「ここには、音楽の書物だけではなく、肖像画があります。私の後ろにあるものを除いて、すべて肖像画です。展示されているものは、ほんの一部で、私たちは 300 枚以上の肖像画を所蔵しています。ここにも隣の部屋にも、明らかに壁にかかっていたものがあり、それらはすべてマルティーニ神父のコレクションの一部です。マルティーニ神父が音楽史のウィキペディアだとしたら、このギャラリーは音楽史のFacebookみたいなものですね。
セルフィーを撮っても大丈夫ですよ。『ヴィヴァルディとセルフィー写真』というハッシュタグをつけて、ぜひ写真を投稿してくださいね!」
(写真)ヴィヴァルディの肖像画とセルフィー写真を撮ってみせるタベッリーニさん
「実は、18世紀と19世紀の音楽家の公式肖像画の40%はボローニャにあります。
例えば『Johann Christian Bach』とGoogle検索すると、私たちが所蔵するこちらの肖像画が見つかります。これは、ヨハン・クリスチャン・バッハ本人がマルティーニ神父にレッスンの謝礼としてプレゼントしたものです。
ロンドン貴族たちの公式画家だったトマス・ゲインズバラに、バッハがマルティーニ神父に肖像画を送らなければならなかったとき、描かせた絵画です。芸術的な観点から言えば、これは絶対的な傑作です!」
大バッハの末っ子であり、マルティーニ神父の弟子の中でもずば抜けた才能を持っていたヨハン・クリスチャン・バッハ。1754年からマルティーニ神父に師事して対位法を学び、キャリアをスタートさせたのは、生地のドイツではなくイタリアでした。
この絵画は、ヨハン・クリスチャン・バッハとイタリアの縁を象徴するような作品といえるかもしれません。
(画像)ボローニャに展示されるトマス・ゲインズバラ作のJ.C.バッハの肖像画(一部)
Text/Photo:安田真子(Mako Yasuda)
2016年よりオランダを拠点に活動する音楽ライター。地域のイベントや市民オーケストラでときどきチェロを弾いています。