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1900年代のイタリア・ボローニャに工房を構え、美しい楽器の数々を生み出した弦楽器製作家アンサルド・ポッジ。1900年代にボローニャ近郊ヴィッラ・フォンターナに生まれ、ボローニャに工房を構えた彼の楽器の価値の高さには近年特に注目が集まっています。
ポッジが亡くなってからちょうど40年の2024年秋、故郷であるヴィッラ・フォンターナの地域や、ポッジ工房のあったボローニャからほど近いメディチーナ市立博物館で、ポッジの楽器と資料を集めた展示会が開かれました。現地からレポートをお届けします。
ボローニャから路線バスに乗って30分。柱廊の歩道が密集し、どこか暗さのあるボローニャ旧市街とは異なり、ひらけた農地に囲まれた小さな町に到着。そこが今回の目的地、メディチーナの町でした。
2024年10月1日から13日にかけて、このメディチーナの公立博物館で『アンサルド・ポッジ - 20世紀のストラディヴァリ- 』と題した展示会が特別に開かれました。
普段の同博物館は、普段は1ヶ月のうち数日しか開館しない小さなミュージアムです。
今回の『アンサルド・ポッジ展 - 20世紀のストラディヴァリ- 』展に際して、特別に連日開館し、多くの人が訪問するにぎやかな空間になりました。
今回の展示会が開かれた背景には、2024年の今年がアンサルド・ポッジの没後40周年であること、そしてポッジの製作にまつわる多くの資料がメディチーナ市に新たに寄贈されたことが関わっています。
過去40年ほどの間、誰の目にもさらされずにいたポッジの製作の型紙や木型などの資料が初めて一般公開されたため、イタリア国内を中心に、数多くの弦楽器製作家や音楽ファンが足を運びました。
期間中には、ポッジのヴァイオリンが6丁、そしてヴィオラとチェロが1丁ずつ展示されました。どの楽器も一目見れば彼の作品とわかる優美さをたたえ、実際にコンサートでソリストに使用される現役の楽器です。
さらに、ポッジの使っていた木型などの製作道具、本人や弟子が書き残した資料や手紙などの貴重な情報源となるものも、今回の展示会で初めて公開されました。
アンサルド・ポッジとは一体何者だったのでしょうか。展覧会の内容を専門家のコメントを交えてご紹介していきます。
(写真)左上の写真はヴァイオリニストとして活躍していた頃のアンサルド・ポッジの若かりし姿
ポッジの父親は、アマチュアヴァイオリニストとして音楽を楽しみ、見よう見まねでヴァイオリンを作っていた鍛治・木工の職人でした。
息子のアンサルド・ポッジは、幼い頃からヴァイオリン演奏に優れ、10km先の教室まで徒歩で(!)レッスンに熱心に通っていたそうです。鍛冶屋での仕事と音楽の両立が難しくなってきた矢先、知人の助けで音楽学校へ進学することに成功。
プロとしてのヴァイオリン演奏だけではなく、趣味で楽器製作もはじめたポッジは、楽器作りにおいても頭角を現していきました。
1922年には、父親の知人だったジュゼッペ・フィオリーニに弟子入りしたことを契機に、弦楽器製作家の道を歩み始めます。
フィオリーニは先見の明があり、当時からストラディヴァリの研究を進めていたドイツ在住の優れたイタリア人弦楽器製作家でした。ポッジが弟子入りした時、フィオリーニは第一次世界大戦の戦火から逃れ、ドイツからスイスのチューリッヒに工房を移したところでした。
フィオリーニといえば、クレモナのヴァイオリン博物館でその名を目にした読者も多くいらっしゃるかもしれません。そう、18世紀のコレクターであるコツィオ伯爵が購入したストラディヴァリ工房の道具や型紙などの貴重な資料を後世のイタリアに遺すために尽力したのがこのジュゼッペ・フィオリーニであり、ポッジの師だったのです。
1920年になってフィオリーニが購入に成功したストラディヴァリ工房の資料は、ポッジがフィオリーニのもとで修行した際、彼のスイスの工房に保管されていました。のちにクレモナ市に寄贈され、現在ではクレモナのヴァイオリン博物館に保管・展示されている、ヴァイオリンの歴史における重要な資料です。
フィオリーニは、ストラディヴァリの資料に基づいて、明確で理論的な製作手法を確立していたと言われています。もともと製作の才能があったポッジはその恩恵を受け、腕前に磨きをかけました。
たった1ヶ月半の間でしたが、ポッジはフィオリーニから多くのことを学びます。製作者としての腕前をすでに確立しつつあったポッジにとって、最高の環境が整っていたといえるでしょう。彼はフィオリーニの指導を受け、ストラディヴァリの製作の秘密が詰まった資料にも触れながら、高品質の楽器を生み出していたのかもしれません。
フィオリー二のすすめで、ポッジは1922年10月には早くも弦楽器製作の国際コンクールに参加しはじめました。才能にあふれ、高い技術を持っていたポッジは、翌年から次々にメダルや賞を獲得。製作者として国際的に知られていくようになります。
1923年になってから2人はイタリアに帰国しますが、その後もフィオリーニとポッジの交流は続きました。フィオリーニはローマ、ポッジはボローニャに工房を構えてからも手紙のやりとりをしてていたのです。その往復書簡が今回、初めて一般公開されました。
ポッジがボローニャで独立した頃、その楽器の評判は海外にも知れ渡っていました。工房には、外国から音楽家がわざわざ訪ねてくることも多かったそうです。
購入した楽器の素晴らしさについて感謝を述べる手紙は、ヨーロッパ各国はもちろん、南米やアフリカからも届いており、資料として今でも大切に残されています。
ダヴィッド・オイストラフやユーディ・メニューインら巨匠もポッジのヴァイオリンを愛したといわれています。
(写真)メニューインからの直筆の手紙も遺されている
言葉少なで厳格なマエストロだったというポッジ。
師ジュゼッペ・フィオリーニの没後、フィオリーニの念願だったイタリアの弦楽器製作学校がクレモナで開校したとき、ポッジは指導者として招かれますが、頑なに断ったのだそうです。理由は、フィオリーニが望んだような形式で指導できる学校ではなかったことや、ポッジの人柄が教職には向かず、多くの人と関わる学校という場に身を置きたくなかったからなのかもしれません。
60年以上にわたる製作家人生で手がけた楽器は、約400丁にのぼります。その大半をヴァイオリンが占め、ヴィオラは40丁以上、チェロは25丁ほど。
ポッジは常に完璧な仕上がりの楽器を追求し続けていました。チェロのようなサイズの大きい楽器を細部まで完璧に仕上げるにはヴァイオリン以上のパワーが必要になるため、チェロを手がけたのは主に若年期にかぎられています。
展示会のキュレーションを手がけたパルマの弦楽器製作家のアンドレア・ザンレさんは、こう語ります。
「ポッジの工房では、楽器のあらゆる細部に対して木製や金属製の型が用意されていて、ポッジが望んでいた正確な形をはっきりと示しています。
これによって、ポッジはストラディヴァリと同様に、完璧な几帳面さをもって、常に最高の楽器を生み出しつづけていたのです。そこにはフィオリーニから学んだ技術も生かされています」
(写真)ポッジの工房で使われていた型
Text : 安田真子(Mako Yasuda)
2016年よりオランダを拠点に活動する音楽ライター。市民オーケストラでチェロを弾いています。