ジャン・バティスト・ヴィヨームはヴァイオリン製作者であり、弓製作者ではなかったものの、彼の弓作りに対する情熱と独自なアイディアをもって、数多くの弓製作者を雇い、驚くべき量の弓を生み出した。それらは19世紀におけるフレンチ弓製作史に多大な貢献をもたらし、特定の弓製作者へ影響を及ぼす程であった。
彼はミルクールのヴァイオリン製作一家に生まれ、幼い頃より楽器製作を学んだ。1818年にパリへ移り、
フランソワ・シャノ1世の下で製作を学んだ後、1827年にパリ1区のクロワ・デ・プティ・シャン通り(rue des Petit Champs)に自身の工房を構えた。
彼は、
ドミニク・ペカットや
ペルソワ、
シモン、
ヴォワランら多くの優れた楽器・弓職人を雇い、彼らへ指示と助言を与える一方、組織の中に於ける一定の自由を許すなどし、統率を図りながら高い品質の弓の製作を実現した。彼は工房に於ける新機構の開発についても全て責任を負っており、例えば
パジョーの工房にて発明された「セルフ・リヘアリング・ボウ」(self-rehairing bow、自分で毛替えができる弓)は、それを改善活用し、手柄としたのはヴィヨーム彼自身であった。1834年にはスティックの材料に金属を用いた「メタルボウ」(metal bow)を開発し、その後の6年間で約5,000本を優れた製作者に作らせるなど一定の評価を得たが、しばらくしてペルナンブコ木材による弓に対しその品質が劣り、後の調整・修復が困難であったことを理由に需要が落ち、生産が打ち止めとなった。1845年には、
ニコラ・マリーンのフロッグ・スタイルに影響を受け、丸みを帯びたフェルールと金属プレート、スティック側にアンダースライド機構を持たせることで安定性を向上させた、通称ヴィヨームフロッグを開発した。ヴィヨーム自身やパガニーニ、アラール、サラサーテなどの肖像マイクロ写真をフロッグのパールアイ部分に施した「picture」弓は、シモンやヴォワランに作らせた。
彼と製作者たちの仲は概して良好であった。製作者たちを刺激、鼓舞し、時には彼らの徴兵を回避するべく行動し、時には国際コンクールへ製作者を連名し出展するなど、彼の統率力のおかげで工房は優れた弓の製作を継続した。
1858年にはテルヌのドゥモ通り(Rue Demours)に工房を移し、1875年に亡くなるまで精力的に製作に関わり続けた。