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第55回 『変身』を体現する楽器 in Milano

ある財団の働きかけで、イタリア南端に漂着した難民の船がヴァイオリンやチェロ、ヴィオラなどの弦楽器に生まれ変わりました。プロジェクトの名称は『変身(Metamorfosi)』。
船の木材で楽器が作られた背景や、弦楽オーケストラで演奏されたコンサートのようすをお伝えします。

刑務所生まれの楽器

2004年頃から、リビア・チュニジアなどアフリカ大陸からヨーロッパの入り口であるイタリアに向かって、たくさんの難民が船で密航するようになりました。戦争や政治危機によって国を脱出しなければならなくなり、安全な住処を求める人の数は増えるばかりです。
とくに、イタリア最南端に位置するランペデューサ島には、数多くの難民船が漂着するようになりました。人命救助の必要があっても、世論は割れ、政府も有効な対策をできないまま、早10年近くが経っています。


そのような状況において、2021年設立の財団『la Fondazione Casa dello Spirito e delle Arti』は、あるプロジェクトを生み出しました。イタリア政府に働きかけ、難民の乗っていた船を引きとって意味のある形で再利用できないかと考えたのです。


船が人知れず廃棄されれば、地中海で命を落とした人々の存在がなかったことにされ、無視されるおそれがありました。そのため、難民の船を聖性のある楽器というものに生まれ変わらせることで、を持たせ、多くの人に知ってもらうことが必要だと同財団の人々は考え出したのです。


これがプロジェクト『変身(Metamorfosi)』誕生のきっかけでした。


2021年12月、弦楽器製作者のエンリコ・アッロルト(Enrico Allorto)とミラノの刑務所内にある弦楽器工房の4人の受刑者によって、船の木材を使ったヴァイオリンが初めて完成しました。それが『海のヴァイオリン』です。


楽器の表板や裏板は、複数の薄い板を曲げてのように組み合わせて作られています。1500年代に使われていた技法を用いたとアッロルトは語ります。


1台目の海のヴァイオリンに続いて、2022年と2023年には、プロの楽器職人の監修のもと、ミラノとナポリ刑務所内弦楽器工房で働く受刑者たちによって、次々と楽器が製作されました。

スカラ座に響いた海のオーケストラの音色

2023年2月12日にイタリア・ミラノのスカラ座で開かれたコンサートでは、その楽器がステージに勢揃いし、チェンバロも加えた弦楽オーケストラとして初めて演奏されました。


『海のオーケストラ』のために用意された船材の楽器の内訳は、ヴァイオリン・ヴィオラが合わせて10台、チェロ2台、コントラバスとギターです。

演奏者としては、マリオ・ブルネロ(チェロ)、ジョヴァンニ・ソッリマ(チェロ)のほか、セルゲイ・クリロフ(ヴァイオリン)、オリジナル楽器を使う弦楽合奏団『Accademia dell’Annunciata』のメンバーが無償でコンサートに出演しました。


曲選びにも関わったブルネロは、演奏会のパンフレットにこう書き残しています。


「音楽というものは、常に新しい経験を受け止め、似通わせ、栄養を与えつづけて、成長し、変身しつづけてきました。木でできたこの楽器は、新しい音色でよりいっそう豊かになりながら、人類共通の気持ちや美を表現してきたのです」

 

 

船に声を与える音楽家たち

 2月12日のスカラ座のステージは、普段の華やかさとは異なり、照明が落とされていました。暗い舞台の上方には、小さく身を屈めた人形が何体も横向きに吊るされています。海の中でなすすべもなく、体を丸めている人のように見えます。

 

主催の財団代表の挨拶のあと、ブルネロ(チェロ)とソッリマ(チェロ)、そしてパオロ・ルミッツ(朗読)が舞台に姿を現しました。

 

2人のチェリストは、普段愛奏しているマッジーニやルジェーリ作の楽器ではなく、赤や青の塗装が剥げかけた船材の使われた楽器を演奏。この2台のチェロは、独特のかげりのある音色をしていました。

 

意志のある射るような音から、くぐもった音の繊細な表現まで、チェロの二重奏は多彩な表情を見せます。朗読される木の物語に沿って、森や海、それを取りまく人々の思いまで、さまざまな景色を多彩色の音のパレットで描き出します。

楽器のポテンシャルを完全に引き出すチェリスト2人の音は、ときに自然音のように、ときに人間の声のように響きました。

海のオーケストラの雄弁な楽器たち

難民船で作られた楽器は、曲によって編成が変わってもプレイヤーたちの間で手渡され、ステージ上で演奏されつづけました。

自然の持つ完璧な美を思わせるJ.S.バッハのブランデンブルク協奏曲第3番、そしてヴィヴァルディの四季より『冬』が続きます。

ジル・アパップの代奏をつとめたのは、セルゲイ・クリロフ(ヴァイオリン)。続くクライスラーの『プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ』では、ひときわよく通る華やかな音で、堂々とした独奏を披露しました。


プログラム後半には、南アフリカ共和国出身の作曲家であるケヴィン・ヴォランズ(Kevin Volans)の弦楽四重奏曲第1番『White man sleeps』、舞曲第1・4番も盛り込まれていました。弦楽四重奏曲第1番は、エネルギッシュでリズミカルで反復の多い作品です。舞曲は澄きとおったハーモニーが魅力的でした。


プログラム最後の曲は、ソッリマ作曲『チェロよ歌え!(Violoncelles, Vibrez!)』。弦楽オーケストラと独奏チェロ2本版で、ブルネロがソロ・チェロの第1パート、作曲家でもあるソッリマが第2パートを担当。

この曲でのイタリアのチェロの二大巨匠であるソッリマとブルネロの共演は滅多にないため、注目が集まりました。


全体的に速いテンポで、疾走感を持って演奏が進んでいきます。曲のテンションが頂点を迎えると、ソリスト2人がうなりに近い叫び声を上げました。そこから何かが緊迫感をもって崩れて、音楽はがらりと変化を見せ、独特のリズムが刻まれます。


1993年の作曲以来、チェリストたちに愛奏されている同曲は、作曲家が生まれ育ったシチリア・パレルモの街が変貌を遂げつつある時代に書かれました。だからこそ、聞く人に「変化」するための勇気を与え、解放をもたらす力があるのかもしれません。

緊急事態ではなく未来への準備

イタリア最南端に位置するランペデューサ島には、今でもアフリカ大陸から難民が到着しつづけています。昨年には、島民の数以上の難民が一度にどっと押し寄せました。

現地では赤十字などによる救助活動が続いていますが、現首相は移民の渡航を停止するように求める立場をとっており、先行きは不透明です。


コンサートを主催した財団代表のアルノルド・モスカ・モンダドーリは、プログラム冊子にこう書いています。


「作曲家や音楽家たちの協力のもと、このオーケストラが『移民問題は緊急事態や侵略行為ではなく、未来へ準備するということなのだ』と理解する一助になる新しい音楽を提案することを願っています」

『変身』プロジェクトには、恒常化している難民問題に以前ほど注目が集まらなくなった今、若い世代にも親しみやすい音楽や『海のオーケストラ』の楽器を通して、この問題を知ってほしいという思いも込められています。
さらに、今後は、地中海の伝統的な楽器を『海のオーケストラ』に加えたうえで、外国でも演奏されることが期待されています。

メッセンジャーとしての楽器

こちらから積極的に聞きとろうとしないと、聞くことができない声があります。弱い立場にある難民の多くが地中海で命を落としている事実があっても、それが語られることは決して多くないのは、それが原因なのではないでしょうか。


楽器の材料になった6メートルほどの船には60人から70人もの人が乗船していたと言われています。しかも、チュニジア方面からイタリアへ向かって地中海を渡ろうとした末、船が難破して、乗っていた人々は命を落としました。

同じように地中海で亡くなったり、行方不明になった人の数は、過去10年間で2万5千人以上にのぼるといわれています。


『海のオーケストラ』は、難民が実際に乗っていた船の材料で作られることで、地中海で起きた物語を運び、多くの人に伝えるという使命を負っています。

さらに、製作過程にかかわる受刑者たちにとっては、楽器を作ることで就業訓練を積み、社会復帰の可能性を高めるチャンスとなりえます。


財団代表は、観客にこう語りかけました。

「劇場から帰る時、私たちはここに来る前と同じ自分とは違う自分になっていなければならないのです」

 

カーテンコールの舞台上で翻った原色の楽器。少しくぐもった叫ぶような音色。コンサートが終わってからも、『海のオーケストラ』が残したイメージは、脳裏に焼きついて離れませんでした。

Photo : Marco Pieri

Text : 安田真子(Mako Yasuda) 2016年よりオランダを拠点に活動する音楽ライター。市民オーケストラでチェロを弾いています。