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連載『心に響く、レジェンドからのメッセージ』

1984年から1993年まで、文京楽器が発行していた季刊誌Pygmalius(ピグマリウス)より、インタヴュー記事を復刻掲載します。当時、Pygmalius誌では古今東西のクラシック界の名演奏家に独占インタヴューを行っておりました。
レジェンドたちの時代を超えた普遍的な理念や音楽に対する思いなど、心に響くメッセージをどうぞお楽しみください。

第30回 小林健次

引用元:季刊誌『Pygmalius』第18号 1987年7月1日発行
■小林健次 プロフィール

1933年生まれ。鈴木鎮一に師事し、その後アメリカのジュリアード音楽学校で学ぶ。1972年より東京都交響楽団のコンサートマスターを、1987年からはソロ・コンサートマスターを務め、長きに渡って同交響楽団を支えた。桐朋学園大教授として数多くの後進の指導にあたる。2021年6月4日に逝去。

1. 苦労の多かった幼少期

―何歳からバイオリンを始められたのですか?


 7歳位からですね。


―最初はどのような楽器をお使いでしたか?


 最初は分数バイオリンがあるのを知らなかったから、父がフルサイズを買ってきましてね。今でも写真があるんですよ、大きなヴィオラを弾いているみたいで(笑)……

 それで鈴木先生の所に行ったのですよ。そうしたら「これは無理ですよ、子供には子供に合った楽器があります。」と。それで分数バイオリンから始めたのだけど…

 その間に戦時中というのがありましてね。勉強を取られた時期でしたね。三味線の糸か何かを張った記憶がありましたね。何しろ弦がなくてね、戦後はしばらくしてもなかったのですが、ナイロンが出てきて、今のとはまったく違う、松脂が全然のらないような弦でしたね。…弓の毛も白い毛がなくてまっ黒でしたね。


―小さい頃は色々な意味でのご苦労があったわけですね。


 そうですね。皆同じような苦労をされたと思います。物資もなかったしレコードも何もなかった。外国人の演奏を聴いたわけでもないですしね。自己流ですね。

 戦後これしかない、何もないのだからやはり音楽をやろうと思ったわけです。2年位したら、作曲家の橋本国彦さんがやはりバイオリンを弾いていまして、フランスへ留学した時買ってきたというシャノーの楽器とシモンの弓を非常に安くわけて下さったのです。亡くなられた時でしたがね。奥様が手放されたんですよね。

2. 楽器というのは演奏家にとって命みたいなもの

―今、お使いの楽器は?


 ドメニコ・モンタニアーナというべニス派の1749年製です。


―いつ頃からお使いですか?


 1971年位にニューヨークのウィリッツァー商会で購入しました。


―その前は何を弾いてらっしゃいましたか。


 その前はちょっと変わっていましてね。ヒロニモス・アマティとフランチェスコ・ストラディバリウスの合作というか、ニコラの父、アマティの作った楽器を百年位後で同じクレモナの名匠、フランチェスコ・ストラディバリウスによって修理されたものなのですね。つまり修理した時、表甲を作ったということなのでコンディションも非常に良いものでした。
 
 一般的には2人のメーカーが作った楽器というと“なんだ”ということになるのですが、これは2人とも名工だということで楽器屋さんも大変かわいがっていた楽器です。

 その前がセラフィン、その前はフランチェスコ・ゴフリラでしたが、これは非常に長い間使いましたね。大体、1958年から1967年の間の10年位です。その前はジュリアード音楽院のJ・Bガダニーニを5~6年の間使わせてもらっていました。非常に勉強になったですね。20歳位のまだ若い頃から使ったから、それで楽器の奏法も覚えたし耳も肥えましたね。


―楽器の変遷というのはガダニーニからずっときているのですね。


 そうですね。学校の楽器はウィリッツァー商会が全部管理していたのですね。ウィリッツァーに修理などで行くと、ついでにね、ストラディバリウスでも何でも見せてくれましてね。4台も5台も出して弾かせてくれたものですが、あれが今考えてみると名器に対する大変な教育をしてもらえたと思うのです。ただで弾けるんですものね。こっちの方が良いとか、これはクライスラーが使ったとかいろいろね。それで自分の楽器を選ぶ時、基準になるものが持てたと思います。


ーそれでは先生は、ある部分ウィリッツァーに育ててもらったとも言えるのでしょうか?


 そうですよ。楽器というのは演奏家にとって命みたいなものでしょ。若い時に良い楽器に触れるということは、後々まで大変な影響を与えるものですね。だから楽器屋さんが若い人の為にそういうチャンスを作ってあげるという姿勢が、その頃すでにあったのでしょうね。ウィリッツァーのお父さんの時代ですがね。

 そこで教育された人は、ズッカーマンとパールマンも必ず戻ってくるわけですよね。そして相談にのってあげるわけですよ。だから楽器屋さんと演奏家の関係というのは、長い長いおつき合いということになりますね。 ウィリッツァーがつぶれてしまったのは非常に残念ですね。…でもウィリッツァーの名は、それなりのことをしてきたわけですからきっと残るでしょうね。


―そうですね。


 ジュリアードに入る前は、シャノーというフランスの楽器を日本から持って行ったんですが、学校から楽器を借りることができたので、触らなくなりましてね。3~4年間ずっとケースにいれたままにしてありました。それでしばらくしてケースを開けてみたら、指板が折れてたんです。


―折れてたとおっしゃると?


 折れて指板の先が表甲にくっついてしまっていたんです、かわいそうに。それを持って行ってウィリッツァーに修理を頼んだら、そろそろ買わないか?と言われたのです。


―ガダニーニをずっと借りていて、卒業する頃に次の楽器を買うというのは、随分大変だったでしょうね。


 そうですね。その時初めてフランチェスコ・ゴフリラを手にしました。ガダニーニよりも大分落ちることは落ちたけれど、それまでに耳の教育を受けていたのでそんなに間違った選択はしなかったと思います。

 フィラデルフィアのメーニッヒにも行きましたけれどね。そこにもフランチェスコ・ゴフリラがあって、いかにもきれいでピカピカして良さそうだったのです。弾き比べてしばらくたつとウィリッツァーの方が良かったわけです。今考えてみると良いだけではなく、調整なんだろうね。ウィリッツァーとメーニッヒは楽器店としての姿勢が違うと思いましたね。メーニッヒが悪いわけじゃないけれど、メーニッヒは自分のお店の音にしてしまうのですね。だからみんな金のラベルが貼ってあるでしょ、これはメーニッヒの調整だというわけですね。多少コーティング等もするのだろうし。でもウィリッツァーの考えというのは、楽器というのはそんなんじゃないと。その楽器の音を出すのが修理と調整だと。そういう姿勢だったと思いますね。


―そういう経緯があって、ジョージ・ シャノーから一挙にJ・Bガダニーニを使うことになったわけですか。


 そうですね。ジュリアード・オーケストラと共演した時もニューヨークのタウンホールでデビュー演奏した時も、演奏会等すべてガダニーニを使わせてもらっていましたから、やはり幸運でしたね。よくあんなに長い間、貸してくれたと思って感謝しています。でもやはりゴフリラになった時は怖かったですね。やはり楽器の能力の差がありますから。でも自分にあっていたみたいで、ガダニーニとゴフリラとでは当然違うはずなんだけど、どこか共通点があったみたいで。両方とも非常にきめ細かく張りのある音で、しかも両方とも1700年代のイタリアの楽器ですから。あと、サイズとかもね、似ていたのかも知れません。


―弓は今、何をお使いですか?


 ドミニク・ペカット。これは大変良い弓ですね。それと30年間使っているシモンとフェティークですね。

 

―弓を選ぶポイントは?


 やはり弾きやすくて、バランスが良くて、粘りがあるものということになるでしょうね。粘りがないと結局、跳ねる力というか、粘り腰というか…腰がないとね、やはりだめですからね。


―弓の毛替えをする時期は?


 毛が切れてくるでしょ。馬毛の弾力がなくなってくる頃が替え時でしょう。新しい時は引っ張ると毛が伸びるんですよね。ところが2ヶ月位使っていると、弓を当てただけで切れるんですよね。粘着力がなくなって切れてくる頃だと思いますよ。それに使わなくても、古くなるとダメですね。

3. 楽器はコンディションの良いものを

―外国に行く時など、湿気や気候の変化のことで楽器に気を使うことはありますか?


 やはり湿度と温度の高低が激しすぎることですね。向こうへ行くと乾燥しているんですね。向こうの人が発明したダンピットを入れて湿り気を保つとかしていますがね。多少は役に立っている所があるでしょうね。でも、むしろ日本に帰ってくる時の方が問題が多いですね。特に梅雨時になると必ずといってよい程、ネックが下ってきますからね。

 特に外国に長くあった楽器だと、1年か2年目になると完全に使えないくらいネックが下がってきてしまうものもあります。そうすると開けて修理しないといけないことに なりますから。日本では梅雨時に必ず乾燥剤を入れますね。


―外国へ行く時注意すべきことは、盗まれないようにすることでしょうか。


 そうですね。パールマンも盗まれたことがあるしね。割とすぐに質屋から出てきたらしいですけどね。楽器は盗んでも、価値がわからない人が多いようですね。処分の仕方がわからない。(笑)


―最後にアマチュアの方に楽器を選ぶ基準、アドバイスをお願いします。


 やはり健康な楽器ですね。つまり、しょっちゅう修理しなくてすむようなものということですね。私もウィリッツァーで「日本に帰るのならコンディションが良くて余りふくらんでない、フラットな楽器を選びなさい。」と言われました。そうすると気候条件が余りよくない所でも、そんなに変らないんですよね。

 楽器の場合には、古くて高くて、だけど健康状態が悪くて鳴らない楽器が時としてあるわけですよ。だから古くて名前があるというので、割と飛びついてしまう人もいるけれど、実際は絶えず修理しなければならないとか。それとやはり良く鳴ってホールで音を出して遠くまで音が通る楽器が条件じゃないかしら。その条件を満たすには、ある程度予算が必要になるでしょうね。丁度逆の場合もありますのでね。


ーお忙しいところを、どうもありがとうございました。