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写真:ニースの旧市街の午後”Afternoon in Old Nice” by wikimedia commons

バイオリン商 デビッド・ローリーの回想録
第37話 セッソールのストラディヴァリ


セッソールのストラディヴァリを見る人は誰しも、何としても手に入れたいと思うだろうし、また、その値段に渋い顔を 作る者もあるまいと考えたからである。私がここで、ことさら説明するまでもない、あまりにも有名なこの楽器は、セッソール伯爵の所有だったことから命名された。

写真:The CESSOLE Antonio Stradivari, Cremona 1716 by THE HENRY HOTTINGER COLLECTION p.28-29

伯爵の死にあたり、その財産が管財人の手に委ねられた。ジャンセン氏は、 初めから、“セッソール“のストラドとベルゴンツィのヴァイオリンを手に入れる目的で、ヴィヨームとニースへの旅に同行した。彼は、それを見たとたん、直ちに買うことに決めたのである。そして“セッソー ル”に対して、とても相場値とは思えない程の価格を承知の上で280ポンドも支払ったのであった。

しかし、手に入れたヴァイオリンは、並みはずれた上物で、彼にとっては満足のいく価格であった。彼はそれをブラッセルに持ち帰り、大事な宝物を扱うように気を配り、立派な演奏家を家に招いては、その楽器を弾かせていた。


■ ジャンセン氏

ヴュータンの死後、数年して自分の健康が衰え始めたのを感ずると、ジャンセン氏は、所持する全楽器を携えて、ドイツのアーヘンに温泉保養へと出掛けた。そこで、私はいつものように彼に会いに行く目的の為に旅程を変更していた。

写真:"1913年のフランダースのポストカード"Old Flanders postcard 1913 City Archive Ghent by ResearchGate

この頃になると、我々の仲はかなり親しくなっていた。彼は私に会うと、いつも弦楽器の情報を聞くのが楽Lみの様子だった。しかし、地球上のどの温泉も、私の友の活力を取り戻すには役立たなかった。この頃には、すでに彼の年は天寿を十分に越している位であったのだが…。それからしばらくして、彼は、生まれ故郷の町、西フランダースのセント・ニコラスへ移った。その時は、アントワープやオランダから、ゲントへの往復の途中にあったので、私はそこを通るたびに、努めて見舞うことにしていた。故郷へ帰った当時は、幾分か健康を回復していたが、それでも少しずつ衰弱し、間もなく他界してしまった。

彼の相続人の甥は、とても忠実な、かつ献身的な人柄であった。ジャンセン氏は、彼に言い聞かせていた。自分が死んだ時には、ヴィヨーム氏に値段を付けてもらい、まずローリーに売却を申し出るということを。この願いは、彼の甥によって確実に実行された。私は、彼から二本のヴァイオリンを買い取った。“セッソール”には 400ポンド、ベルゴンツィには140ポンドという、当時としては目が飛び出る程の値を支払った。 
ベルゴンツィは、良質の材料に素晴らしいニスがかけてあり、保存状態も完壁といってよく、アマチュアのみならずプロの演奏家にもそれが本物のカルロ・ベルゴンツィであると信じさせることにひと苦労した。

結局、私はそれをドイツ人の演奏家にほんの少し手数料を上のせしただけで売ってしまった。このことについて、彼でさえ疑念をいだかないわけではなかったことが良くわかった。そしてほんの数ドル支払った後でも、この取引をよせばよかったと思っている。

その後、この演奏家の消息を聞いたところでは、この同じ楽器を40ポンドで売ってくれという申し出を断ったということであった。この噂の真偽を尋ねて、私は彼に手紙を書いたが、彼の返事はその通りとのことだった。それは自分の独奏楽器なので、いかなる金額でも手放すことを拒んでいるのである。弾き続けているうちに作り上げた音色は、全く自分の思いどおりになったので、ストラドにしろ、グァルネリにしろ、これ以上のものは見い出し得ないと彼は確信しているようであった。


第38話~セッソール~へつづく