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1730年、巨匠アントニオ・ストラディヴァリも86歳になり、いよいよ円熟期を迎えます。

晩年の作品は、黄金期のものにくらべると、ややアーチの高いフォルムが特徴的です。パフリングや細部の仕上げ精度にやや衰えを感じさせるものの、 クライスラーやフーベルマンが愛用するなど、音色や機能性で申し分ない実力を持っています。 ストラディヴァリは生涯で6人の子供をもうけており、 最初の妻との間に生まれたフランチェスコとオモボノの手が入った作品も多く存在しています。また、実質的にはカルロ・ベルゴンツィが工房の中心として仕事を手伝っていたという説もあり、晩年の作品についてはさまざまな見解がなされています。

円熟期の代表的な楽器としては、以下のものが挙げられます。

写真:"ANTONIO STRADIVARI BY ALTON S.TOBEY", VIOLIN ICONOGRAPHY OF ANTONIO STRADIVARI 1644-1737, Herbert Goodkind, 1971





1733年製ヴァイオリン 'Sassoon'

BL(ボディ長):355.5mm 


すでに89歳であったストラディヴァリによる晩年の典型的な作品。f字孔は1710年代に見られるような美しく独自な形状を取り戻しています。クライスラーやメニューインなど、名だたる巨匠たちが同じ年号で作られたヴァイオリンを愛用していることから、非常に優れた設計であることがわかります。

J.B.ヴィヨームからヴァイオリニスト・ヒアマンへ売却された後、イギリスの楽器商によって有名なユダヤ系の名家のひとつ、サスーン家出身の政治家で芸術品収集家であったフィリップ・サスーンの手に渡ったことから、この号名がつきました。

写真:"top and front of Sassoon", Antonio STRADIVARI, The Cremona Exhibition of 1987.CHARLES BEARE.1993.page271より一部引用





1736年製ヴァイオリン 'Muntz'

BL(ボディ長):353.2mm 


ストラディヴァリが亡くなる前年、92歳の頃の作品。コーナーやエッジの細工は非対称で重たい雰囲気をもつなど、技術の衰えは見て取れるものの、楽器全体から放たれる力強いオーラが感じられます。

1775年に息子のパオロが楽器収集家であったサラブエ侯コツィオ伯爵へ売却した後、ルイージ・タリシオの手を経てパリのガン工房へ渡ります。英国の収集家ムンツ氏が1874年にガン&ベルナーデルから購入し所有していたため、「ムンツ」と呼ばれるようになりました。

写真:"top and front of Muntz", Antonio STRADIVARI, The Cremona Exhibition of 1987.CHARLES BEARE.1993.page295より一部引用







オモボノ・ストラディヴァリとの比較

息子のオモボノの楽器と比較してみると、f字孔の形状やアウトライン、象嵌の入り方や材料の雰囲気など、共通する部分が見受けられます。

左がアントニオの上述の1736年製"Muntz"、右がオモボノの1732年製"Hamma"です。高音側(EA線)のf字孔の位置が若干上方向に位置している点や、エッジの形状など、非常に良く似ていることがわかります。

写真:"top of Hamma", FOUR CENTURIES OF VIOLIN MAKING, COZIO PUBLISHING, 2006, page564より一部引用





1737年、ストラディヴァリは93歳で生涯を終え眠りにつきました。彼は70年の活動期間において600本に及ぶ弦楽器を製作しました。その亡骸はサン・ドメニコ教会の墓地に葬られ、現在は教会の解体とともに遺体の所在はわからなくなっています。

彼の自宅と工房は息子のパオロ・ストラディヴァリに相続されました。パオロは遺産として受け継がれた90本のヴァイオリンを30年間で徐々に売却し、1775年の時点で残りは10本になってしまいます。その残り10本は、熱狂的な楽器コレクターであったサラブエ侯コツィオ伯爵に、ストラディヴァリの製作工具とともに売却されます。

コツィオ伯爵は現在のトリノ一帯を領地としており、G.B.グァダニーニのパトロンであったことでも有名です。コツィオとの契約が解消されたのち、グァダニーニはストラディヴァリの後期作風に影響を受けたヴァイオリンを作り始めました。

写真:"The Tombstone of Stradivari", ANTONIO STRADIVARI HIS LIFE AND WORK(1644-1737), W.E.Hill&Sons, 1902, page20より引用

1762年には、イタリア人ヴァイオリニストのヴィオッティがパリで演奏会を開き、ストラディヴァリウスの音色で聴衆を魅了しました。すでにストラディヴァリの評価は高まりつつあったフランスですが、これ以降ヴァイオリン製作における手本として、ストラディヴァリモデルが定着していくのでした。

また、ヴィオッティは18世紀の名弓職人、フランソワ・グザヴィエ・トゥルト(トルテ)に、ストラディヴァリウスをもっと良く響かせるための弓づくりを依頼します。この要請を受けてトゥルトは反りの向きを変更し、金属製のフェルールを取り付け弓毛の接地面積を広くした、モダンボウの原型を発明しました。

つまり、ストラディヴァリの作品とそれを演奏するプレーヤーの要望によって、弓もまた進化したと言えるでしょう。


写真:"Giovanni Battista Viotti by Antoine Maurin" / Wikimedia
大航海時代、世界大戦期などを経て、情勢が国際化するに伴い、名器は世界中へと分散していきます。イギリスのヒル商会(W.E.Hill&Sons)や、アメリカのウィリアム・ルイス商会(William Louis & Son)など、各時代にストラディヴァリを数多く取り扱うディーラーが生まれ、彼らもまた、ストラディヴァリの偉業を評価し、研究書を後世に残しました。

以降、現在に至るまで世界中の演奏家、コレクターが欲してやまない名器ストラディヴァリ。その歴史を紐解くことで学べるものはあまりにも多いです。

(おわり)