第13話 〜謎の名器(3)〜
バイロー氏所有のバイオリンの、買い主となるかも知れないその人が提示した条件はこうだった。
「
いいでしょう。値段については三万フランでも、結構です。ただし、そのバイオリンに鑑定書を付けて下さる事が条件です。それも、パリの最高権威であるガン氏のものに限るということでどうでしょう。」
「
承知しました。それが必要だとおっしゃるのなら、さっそくに入手してお送りします。ガン氏は、父の代からの知人ですから、このバイオリンのこともよくご存知だし、改めて調べ直す必要もないというでしょうから、どうぞこのまま、バイオリンは、お持ち下さい」
とバイロー氏は言った。
しかし、この青年は、問題解決後にとだけ言って、バイオリンを置いて帰った。
写真:GAND&BERNARDEL 1888年発行 販売証明書"nicolas LUPOT Ses contemporains et ses successeurs", JMB Impressions, 2015, 196 page "Facture Gand et Bernardel, 1888. Archives privees"より一部引用
バイロー氏は、バイオリンを持たずに大急ぎで、ガン氏の家を訪ね、事の次第を説明した。しかし、彼は再び失望を味わうことになる。ガン氏はこう言った。
「喜んで証明書を書いて差しあげましょう。しかし、そのバイオリンを見たのは、ずい分昔のことですし、当時私は、バイローさんの弟子にすぎなかったのです。そのバイオリンを詳細にわたって見たこともないので、まず、何はともあれ、その楽器を見せてくれませんか。」
実際、その当時のガン氏は、まだ今の職業に就いておらず、楽器の”つくり”という観点には、ほとんど無関心であったと言ってよい。しかし、その後、兄の死を契期として、演奏の勉強を打ち切って、現在の職業に転向したのだった。それから、あらゆる種類の楽器研究を始めたわけで、今なら、正しい判断ができるだろうと思ったからであろう。
もう一つの理由に、彼がベルナーデル兄弟と仕事を提携していたこともあるだろう。彼の出す証明書が、自身の問題だけにとどまらず、二人の上にも信用問題として影響を及ぼすかもしれないことを考えあわせると、ガン氏としても、慎重にならざるを得ないのだ。
バイロー氏は、家へとって返してバイオリンを持ってくるとこう言った。
「
さあ、これ以上時間をかけられないんです。どうです?このバイオリンはストラディバリウスの、それも最高秀作の一つだともちろん認めてくれるでしょう!?」
ガン氏は、バイオリンをじっとにらんだまま、しばらくの間無言のままだった。彼がなかなか口を開いてくれないのをみると、気の毒なバイロー氏は、いよいよ心細く不安をつのらせた。
その後、ガン氏が私に語ったところによると、バイロー氏のその時の顔といったら、本当に見るに忍びないほどだったという。とてもその楽器がストラディバリウスではないと、告げられる状態ではなかったという。
ともあれ、ガン氏はその場での即答を避け、ベルナーデル兄弟が仕事をしている、奥の小部屋へ入って行った。彼はこれまでのいきさつを二人に説明し、今までずっとそのバイオリンがストラディバリウスの傑作の一つだと言われていたので、彼自身、今こうして見てみると、大いに驚くと同時に、失望もしたのだと語った。
写真:国民衛兵大尉制服を着るEugene Gandの肖像"nicolas LUPOT Ses contemporains et ses successeurs", JMB Impressions, 2015,183 page "Eugene Gand en tunue de capitaine de la garde nationale pendant le siege de Paris, 1871"より一部引用
今に至っては、ガン氏はこれが百パーセント間違いなくストラディバリウスではないと確信していた。
しかし、バイロー氏がわざわざ自分に鑑定を依頼に来たのは、特別な事情があるかも知れないと感じたので、考えた末に、もっと他の鑑定家の意見を聞いてみたらどうかと提案した。三人は、バイロー氏に対し率直に製作者の判定についての疑念を打ちあけ、そう勧めたのだ。哀れなバイロー氏は、これを聞くと、言葉が出てこないほどの落胆ぶりだった。実際、精神的な打撃は相当に大きなものだったに違いない。
バイロー氏が、他に信頼できる鑑定家を知らないというので、ガン氏が、信頼性の高い鑑定眼をもち、その楽器に対して何の先入観も持たない人間がいいということで私を紹介したものらしかった。
第14話 〜謎の名器(4)〜へつづく。