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写真:”19世紀のパリの風景” historic-bw-photos-of-paris-france-late-19th-century-01 by monovisions

晩年の傑作


ストラディヴァリウス(1644年~1737年)は、1700年から特定の形の楽器を製作するようになり、この年をもって、彼の黄金時代の幕開きとされている。他方、彼は生涯を通じて、この黄金時代とは形も大きさも全く異なる楽器を何台か製作しており、そのうちの一部は、黄金時代以降のものである。


写真:"アントニオ・ストラディヴァリ肖像"Antonio_stradivari by wikimedia commons

彼が、1730年から36年にかけての時期に、1690年以前の初期の形に逆戻りしたことは理解に苦しむ。楽器製 作のために晩年に描いた製図は、彼の道具ともども、トリノのラ・ヴァッラ侯所蔵のコレクションに現在も見ることができる。こうした製図は、トスカーナの大公や皇子が注文した四重奏用のもので、その中の2台は1690年以前の初期の形態で小型のもの、テナー用は、比岐的大きいが初期の形のものであった。

これらの製図や模型などから、これまで知られていなかった面自い事実がわかる。それは、ストラディヴァリウスは、科学的な根拠に基づいて楽器を製作したのであり、彼の傑作は、偶然の産物などではない、ということである。それだけに、1730~36年に初期の形へ回帰した理由を探るのは非常に難しい。

彼は晩年、初期の形や寸法と同じものを4台作っており、ラベルの欄外にD.A.92と記した。これは、高齢になるまで自分が製作活動をしていたという事実を、永久に残すためにほかならない。彼は1737年の後半に亡くなったので、その年が製作年の最後だと言われることもあるが、一般には、1736年が最後だと考えられている。幸い、私はかなり唐突な方法ながら、これらのことを立証することができた。

パリの楽器商


パリには一流のヴァイオリン製作家や楽器商が多いが、私はその中の一人と非常に親しかった。この人は、無口で気難しいことで評判の人だった。だが、私自身は機嫌のいい彼しか知らないし、私好みの物を彼が持っていれば、必ず取り引きをした。ひとたび設定した値段を後から変更しない、という私の取り引きの仕方を彼は評価し、フランス人を相手にするよりもいい、と言ってくれていた。

ある時、彼が見事なストラディヴァリウスのヴァイオリンを借金の担保に持っている、という噂を私は耳にした。しかし、それを教えてくれた人の中の誰も現物を見ていなかったので、私は、その話を胸の奥にしまっておいた。

私は、パリに滞在している時は、ホテルへの帰り道、彼の店に立ち寄った。それは、彼がのんびりパイプをくゆらしている夜10時から11時のあいだだった。店の奥へ誘われることもあり、そんな時は、2人でワイン・グラスを傾けながら、ヴァイオリン談義に花を咲かせた。

彼が、アントニオとジロラモ兄弟の手になる素情らしいアマティを見せてくれたのは、こうした折だった。ほの暗いガス灯の下ではあったが、私はこの楽器に一目惣れだった。値段は手頃だったものの、あいにくお金の持ち合わせがなかったので、取り引きは翌朝の朝食に持ち越された。無事に取り引きを済ませ、朝食も終わる頃になって、彼は突然、ストラディヴァリウスの傑作を持っている、という話を持ち出し、それを入手した経緯を語り始めた。

10年前のこと、グランド・ホテルに滞在中のロシア人と称する人が訪ねてきた。この人は、金に困っているから、ヴァイオリンを担保に200ポンド貸してほしい、と言った。期限は一年で、期限が切れる前に何の連絡もなかったら、勝手にその楽器を売り払って構わない、という条件であった。

全く音沙汰がないまま、期日を迎えた。しかし、彼は楽器を売る気にはなれなかった。なんとか持ち主を捜し出して、楽器を取り戻す機会を与えたかったのだ。ホテルの部屋番号だけをたよりに、1年前の宿泊客名簿や帳簿を調べたが、何の手掛かりもなかった。
第50話(最終話)~ストラディヴァリウス晩年の力作 ・その2~ へつづく